●神様を褒めたたえる言葉としての枕詞
枕詞ですが、(前話で)文脈から孤立している、不思議で不可解なものとしてあり続ける言葉だと説明しました。なぜこのような言葉が使われるのか、そのことが問題となります。そこで、枕詞が一体どういう言葉を修飾するところから始まったのかという点を、確認しておきたいと思います。
まず、神様の名前を修飾する枕詞が大変古くからありました。例えば、『日本書紀』にある、次の言葉です。
「神風(かむかぜ)の伊勢の国の、百伝(ももづた)ふ度逢県(わたらひのあがた)の、さく鈴五十鈴宮(いすずのみや)にます神、名は撞賢木厳之御魂(つきさかきいつのみたま)あまざかる向津媛命(むかつひめのみこと)なり」
これは歌ではなく台詞です。神様が自分の正体を語っている託宣の言葉なのです。
この中で、スライドでは太字になっている部分が枕詞です。「神風の」が「伊勢」に掛かり、「百伝ふ」が「度逢」に掛かり、「さく鈴」が「五十鈴宮」に掛かっています。また、「あまざかる」が「向津媛命」に掛かっています。枕詞が4つ含まれているのですが、最初の3つは地名に掛かっています。対して、4つ目は「向津媛命」という神様の名前に掛かっています。
しかも、最初の3つは単なる地名ではなく、伊勢神宮に掛かる枕詞です。つまり、尊い地名や神様の名前などについて、それらを褒めたたえるという役割を持っているのです。また、当然それらは、宗教儀礼の中で用いられるのが基本であると考えられます。つまり、荘重さを喚起する、もしくは重々しい気分を強めるという役割を担っていたと考えられます。
その他にも、「八雲立つ出雲八重垣つまごめに八重垣作るその八重垣を」という歌や、「こもりくの泊瀬(はつせ)の山のやまのまにいさよふ雲は妹にかもあらむ」という歌があります。これらは、両方とも非常に古い歌です。「八雲立つ」が「出雲」という地名に、また「こもりくの」が「泊瀬」という地名に掛かっています。
このように、地名に掛かる枕詞は大変多く見られます。これらは全て「土地褒め」といいますが、その土地を褒めたたえるものです。特に神様に関わる土地を褒めるものが多いのです。
ということで枕詞には、神様およびそれに関わるものを褒めたたえるという機能が最初にあります。
●普通名詞を修飾する枕詞
そして、神様とは直接関わらない、普通の名詞を修飾するという枕詞があります。いくつか挙げておきます。
ちはやぶる 神
ひさかたの 天(日・月・光)
あかねさす 日(昼・紫)
あしひきの 山
ぬばたまの 黒(夜)
あらたまの 年
たまきはる 内(命)
たらちねの 母
「むささびは木末(こぬれ)求(もと)むとあしひきの山のさつをにあひにけるかも」、「たらちねの母が手離れかくばかりすべなきことはいまだせなくに」などの例を、ここで挙げておきます。このような用例は、枕詞の中では比較的知られた例ではないでしょうか。ご存じの方も多いのではないかと思います。
神様に掛かる「ちはやぶる」などもありますが、信仰の対象に掛かる枕詞も、結構多いのです。例えば、雨や日、月は信仰の対象です。「あしひきの」山ですが、山も「山の神」などという言葉もあるように、神様が宿ります。黒や夜は闇を連想させます。畏れを抱かせる、空間や時間というわけです。すると、それは畏れということから、神様にも掛かります。
それから、「あらたまの」年ですが、年というのはそもそも実りのことを指します。1年に1回実りがあるので年といわれるのですが、神様のご加護と関わるので、信仰と関係しています。母も、神なる母でもあり、神様とやはり関わっています。あるいは生命力と関わるといっても良いかもしれません。
つまり、枕詞は、あがめたり、畏れたり、憧れたりする対象に掛かり、修飾することが多いのです。畏怖、尊敬、崇敬の対象に掛かるといえるかと思います。
●用言に掛かる枕詞
一方で、普通名詞ではなく、用言、つまり動詞や形容詞、形容動詞などに掛かる枕詞もあります。「ま草刈る荒野にはあれどもみち葉の過ぎにし君が形見とそ来し」、「かくばかり恋しくしあらばまそ鏡見ぬ日時なくあらましものを」という2つを例に取ってみましょう。
「もみち葉の」――『万葉集』の時代はもみちといいました――は「過ぎ」に掛かり、「まそ鏡」は見るの「見」に掛かります。さて、この場合、「もみち葉の」、そして「まそ鏡」――大変立派な鏡、きれいに澄んだ鏡のことをまそ鏡といいます――という2つの表現は、どちらも意味がはっきりしています。用言を修飾する枕詞は、意味や掛かり方が明確なものが比較的多いのです。
そして、あまり固定的でなく一回ごとに異なる、もしくは一回限りの枕詞というものも多く...