●言葉の問題における「正しさ」とは?
―― 本日のテーマは「西洋哲学と東洋哲学から考える日本の課題」ということなのですが、最初に取り上げたいのは、最近の社会のあり方で少し気になる問題です。例えばポリティカル・コレクトネスやポピュリズムは、どのような原理から考えるべきなのでしょうか。是非、お聞きしたいと思います。
最近は、ちょっとした失言があると、すぐ批判が集中して、炎上してしまいます。あるいはトランプ大統領がツイッターで何かをつぶやくと、一気に情勢がガラガラと変わるなど、言動によって激しい動きが見られます。そのため、時には一種の「言葉狩り」的な状況も、最近では見られます。こうした今の傾向を、どのようにご覧になっていらっしゃるでしょうか。一言ずついただければと思います。では、納富先生、お願い致します。
納富 はい。どうもありがとうございます。納富です。よろしくお願いいたします。
現代の社会で、日本で実際に起こっている問題をどのような切り口から考えるかということが、本日のテーマかと思います。そのなかで、今触れていただいた、私たちは言葉をどう使っているのかという問題は非常に重要で、そこは反省が必要だと思います。中島さんも私も文学部畑ですので、政治や法律に直接関与しているわけではありません。しかし、むしろそのほうがこうした問題に対して、より基本的なことを考えられるのではないかと思っています。
言葉の問題にはいろいろな側面があります。先ほどの例でいえば、特定の言葉の使い方に対する批判がなされて非常に息苦しくなったり、言葉尻だけで攻撃するようなことも多いのです。私自身の経験でいうと、ものを書いていると、言葉遣いとして今まで普通に通用してきた日本語の単語が、次々とブラックリストに載っていって、使えなくなってしまう状況があります。これは、日本語の貧困の問題というべきで、どうだろうと疑問に思うこともあります。
このあいだも、プラトンの文章を翻訳するなかで「盲目的」という言葉を使ったところ、盲目という単語に問題があると言われて、「えっ」と思いました。こんなとき、「どうしたらいいんだろう?」となってしまうのです。
盲目というのは、もちろん目が不自由という意味なので、使い方によっては、目が健全な健常者とそうでない人を区別することになるかもしれません。しかし、こうした単語を使わなくすれば、世の中は平和になり、差別がなくなるのでしょうか。逆に使わなかったら、どういう単語を別に使えばいいのでしょうか。盲信や盲目は、基本的には1つの比喩として使われています。「目が見えない」ということで意味されているのは、実はわれわれが目の前にあるものを、きちんと見ていないよ、ということです。ここにおいて「見る」という比喩も使ってはいけないとなると、言葉の可能性をどんどん制限していくことになります。
これは、私たちの日常生活の豊かさや、表現の自由にも影響する問題ではないかと思っています。「盲目」の例は、比較的穏当な例かもしれませんが、もっと激しい場面もあるかもしれません。そういったことも含めて、こうした場面でいわれる「正しさ」がどういうことなのかを考えることが必要ではないかと思っています。
●言葉の支配をめぐる欲望の存在
―― では、中島先生、お願い致します。
中島 中島でございます。どうぞ、よろしくお願いします。
言葉の問題というのは、本当に難しいですね。私のように、中国の研究をやっている人間からすると、「正しい言葉とは何か」というのは、古来ずっと議論されているテーマです。基本的には、「正しい言葉遣い」と言うときにその後ろに見えてくるのは、言葉を支配したいという欲望です。ですから、今の日本での状況も、言葉というものを支配したい欲望が、案外透けて見えるなと思います。
でも、私がよく思い出すのは1960~70年代です。それ以前もそうですが、ある特定の国や政治家が、言葉を支配することを通じて、非常に抑圧的な政治をするというケースが多々見られました。こうした時代に、ウィスタン・ヒュー・オーデンという詩人は、「いや、そうした人食い鬼のような存在でも、言葉は支配できないんだ」というようなことを言いました。やはり言葉には、人間のある種の自由や可能性の問題があるんだということを、オーデンは思い起こさせてくれたと思うのです。ですから、言葉や言葉を支配するという問題は古くからあり、現代的にも重要ではないかと思います。