●「正しい人」をいかに育てるのか?
―― それでは次に、なかなか難しいのですが、どうやってそれ(「正しさ」というものを養っていくための教育)を実現するかということについてお聞きしたいと思います。例えば、古代ギリシャでも古代中国でも、教育機関など社会的なものがあったと思います。また、昔の「正しい」というのは、「正しい人」になることを目指すものだったのであれば、おそらくそれをいかに養成するかについての知もあったかと思います。具体的な例としては、こうしたものはどのような形で考えられていたのでしょうか。
納富 「正しい」とは、基本的に市民になるということで、それは普通の社会でもいろいろな場で行われるわけですが、前回私が言った2段階の教育でいうと、第2段階目が問題なのです。第1段階は、ある意味で健全な社会であれば機能します。親が子どもに対して「正しい行為を見習いましょう」ということをちゃんと教育をするというものです。特に伝統的な社会では、これは機能します。
しかし、2段階目のところは難しく、これが形骸化してしまうと、「正しい」といわれているものが「昔からそうなんだ」という形で、やや抑圧的な形で働くこともあり得ます。これは宗教も同じだと思います。そこで、問いがきちんと機能するような場所を確保することが重要になっていきます。
●プラトンの「アカデメイア」から受け継がれる「大学」という場の意味
納富 これについては、人類があちこちで文明を築き、そうした場所をつくってきました。インドや中国も、それぞれそういった場をしっかりとつくってきたということが、大きな意味をもってきたと思います。ギリシャの場合、プラトンが最初につくった「アカデメイア」という学校があります。900年ぐらい続いたのですが、これが1つのモデルになり、中世の大学ができ、現代に至るわれわれの教育ができました。これはやはり前回、中島さんがおっしゃった「問う」ということと一緒に行われていったのだと思います。
「対話」と訳すと少し軽く感じてしまうかもしれませんが、哲学には基本的に「ダイアローグ」という形で、問い、問われることを一緒に行う方法的なプロセスが必要です。そして、それは当然1人ではできないので、相手と一緒に行うことになります。その場合、相手を厳しく批判したり論駁したりしながら、場合によっては2人とも妥協することになります。言葉をきちんと使っていきながら、人と対峙していくプロセスが必要なのです。
だから現代でも、私たちが教えている、「大学」というところはそういうところだと信じているのですが、自由な言葉を使い、人と人とがさまざまな問題についてきちんと考えていく、かなり限られた、しかも理想的な場であるといえるのではないでしょうか。なぜなら社会に出てしまうと、全ての瞬間にそうしたことを行うのがなかなか難しいからです。それに対して、大学はまさにそれが許されている、特化した場所であるということです。
言い方を換えると、現代まで大学に受け継がれているのは、「人間になる」ための場所だという理念です。「正しい」人間になるということが発揮できる場所であるということです。しかし、これが実際に機能しているのかというところが問題で、シリーズ内で中島さんがおっしゃった「学問」という素晴らしい言葉も、そういった意味で使っている人は、今はもういないのではないでしょうか。ただし、例えばヨーロッパでは自身の文明の中でモデルとして、「大学や学問とはこうあるべき」というものを持っているのですが、その基本パターンは対話です。つまり、議論するということだと思うんです。
●古代中国には「学校論」があり、学び問う場所は大変重要だった
中島 ギリシャ哲学をみると、なんていうかスリリングな対話があるじゃないですか。「今、あんなことができるといいなぁ」なんてよく思います。古代中国にも、例えば『論語』にはいろいろな対話があります。それに対して、近代的な哲学となると、対話がある種の体系になり、難しくなってしまいます。だから私は、ひょっとすると近代ヨーロッパ的な哲学とギリシャの間には、関係がないのではないかと思っています。
それはともかく、場所の問題ですよね。古代中国でも、例えば「学校論」というものがあります。「学校」とは、ものすごく古い言葉なんです。学校論も昔からずっとあり、人が集まって学び問う場所は、ものすごく重要だと考えられてきました。そのなかで、国がやる場合と民間でやる場合に分かれていきました。両者は対立する場合が結構あるのですが、人が自由に議論するということは、あるタイプの統治者にとっては極めて危険なことでもあります。
孔子などは、統治者にとって非常に危険な人物です。若い弟子をいっぱい連れて、う...