●カントはなぜ嘘をついてはいけないと考えるのか
―― 「正しい」というのは、行為なのか人なのかということが、今回の講演会における1つの論点であったと思います。イメージ論だけでお話しするのは恥ずかしいのですが、人として「正しい」かどうかが問題となった場合、100パーセントそれに当てはまる人になるのは、おそらく難しいだろうと思います。8割良くても、例えば異性に対しては少し甘いとか、お金に対してはルーズだとか、そういう欠点はあり得ます。また、あの人は7割正しいし、正しい人を目指してやっているから良いのではないか、もう少し成長を見てあげよう、という考えもあり得ます。
片や現代社会を見ると、政治家やスポーツ団体の、少し強面のトップの方に対して、マスコミの方々があえていやらしい質問を重ね、失言を誘うシーンがよく見られます。その失言だけを取り上げて、結果的に貶めることになったり、ということもあります。ドナルド・トランプ大統領のツイッターでの発言に対する反応も、それに近いようなところがあるような気がします。
こうしたことから考えると、人が「正しい」ということと、行為が「正しい」ということの間には、かなり大きな差があるような気がします。現在の日本では、特にポピュリズム的、あるいは道徳的にレッテルを貼って、〇×(マルバツ)を付けてしまうような社会になりつつあるように感じます。そうした状況に対して、古代的といいますか、そうした「正しい人」という観念をどのように生かしていくことができるのでしょうか。
納富 その前に少しだけ、中島さんが前回言った「カントがなぜ嘘をついてはいけないと考えたのか」についてお話しします。これは非常に重要な問題だと思うのです。
「嘘つきのパラドックス」をご存じでしょうか。「私は今、嘘をついています」と言った場合、その発言(「私は今、嘘をついています」という発言)が本当であれば、そのこと自体(嘘をついているということ)が嘘になり(つまり、嘘をついていないということ)、もしその発言(「私は今、嘘をついています」という発言)が嘘であれば、そのこと自体(嘘をついているということ)が本当(つまり、嘘をついているということ)になります。これは、ジョークとして受け入れられる場合には特に問題になりません。しかし、人間は言葉を使っている以上、言葉を信頼しなければなりません。そのため、例えば、今日皆さんに真剣に話を聞いていただいた後に、私が最後に「ここまで話したことは全部嘘でした」と言ったら、皆さんはどうします?
私たちは、「嘘をつかない」という約束のもとで言葉を聞きます。やはりこれは、人と人との信頼関係の問題です。だから、「匿う」ことについてのカントの事例は、すごく極端だからこそ、いつも持ち出されますが、私はあまり良い例ではないと思っています。カントは基本的に、人間は言葉を使っている以上、お互いを信用しなければならないので、そこでは嘘をつくということを前提にすることはあり得ないよね、ということを議論しているのです。これは人間の理性の問題なので、その意味では、私はカントの言っていることは正しいのではないかと思っています。
●「正しさ」の基準を自分にも当てはめてみる
納富 少し話がずれてしまいました。話は、ポピュリズムのようなさまざまな場面で、「正しい」ということをどのように考えるべきか、ということについてですね。これについても、私はやはり、「正しい」という言葉を使っている本人にとって、自分の問題はどうなのかを、一番考えるべきだと思うんです。
つまり、何か仮に問題になるようなことをした人がいる場合、例えばそれが政治家なら「政治家のくせに賄賂を貰っているなんて、不倫しているなんて」などと言いたくなるでしょう。しかし、それが人間と人間の関係である以上、そう言っている自分についても、問われることになります。
『新約聖書』に、イエスが「この女に石を投げるんだったら、投げる資格のある者はいるのか」と言ったところ、誰もいなかったという逸話があります。私たちは人に対して、「良い」「正しい」という評価語を使いますが、その場合に自分はどうかについては問いません。自分のことを考えなければ何も言ってはいけないと考える必要はありませんが、やはりこの点を挟まないと、言葉だけが武器として使われ、「誰が使っても鉄砲は鉄砲だよね」という感じになってしまうと思うのです。私たちは、自分が使う言葉に責任を持って反省しなければ、人の言葉の使い方を批判してもしょうがないと思います。これはやはり全体の問題です。現代は、私たちの言葉の使い方が、非常に荒くなってしまっているといってもいいかもしれません。
だからといって、言葉をいろいろと使わなければ良い、人を...