●古代中国においても「正しさ」は人に関わるもの
―― 中島先生、お願いします。
中島 中国の古代も、(西洋と)だいたい似たようなものだと私は思っています。「正しさ」というのは、古代中国においても、人に関わるものです。
例えば「君子」という言葉があります。君の子と書いて「君子」です。この言葉は当初、新しい言葉として登場しました。それまでは「君主」、つまり支配者としての「君」があり、それを転換するわけです。「君子」とは別に支配者ではなくても良く、何らかの努力をしていけばなれる、「正しい人」の理想です。「君主」になる努力をしましょうということで、それを示すために、「君子」という新しい概念が導入されました。
「本当に君子がいたんですか」というと、そんなことは分かりません。でも、それを目指し、人がより正しくあることで、社会は少しはマシなものになっていく。そうした発想があったのです。
●「正しい人」になるためにはメンターが必要
中島 そこでなされていたのは、行為を1個1個取り上げて、「これが良い、悪い」という議論ではなかったと思います。しかし、どうやったら正しい人、つまり君子になれるのでしょうか。これは最大の問題です。もちろん、何らかの行為を通じてではないと実現しません。先ほど納富さんがおっしゃったように、重要なのは、真似をすることを通じてだんだんそれを自分の中に身体化していくというか、内面化していくことです。そういったことは、とても大きいことです。
だから、例えばメンター的な存在が重要でしょう。お師匠さんと言ってしまうと、いきなり上から目線になってしまいますが、そうではなく、ある種の人生の先達として、同伴してくれるような人を想定するといいでしょう。その人に、すごい知識があるわけではありません。その人の態度が、より開かれていて、君子であろうとしている。そうした人とともにいることでしか、人は正しくなるというのは難しいという発想が、古代中国にはあったと思います。
こうした考え方からすれば、例えば私が単独でいろいろな知識を身につけ、「正しさ」の基準を見つけ、「正しい人」になるというのは不可能だということです。そうではなく、誰かと一緒に正しくなっていくというものです。
●状況依存的な感情が重要である
中島 そのとき、非常に大事なのは、各人の身体的な部分です。心だけでなく、身体的なものがとっても大事なのです。特に感情です。感情をどうやって豊かにし、陶冶していくのか。それが、「正しい人」としてのあり方に深く関わっています。ですから、古代中国においては、抽象的な正しさを講義するより、その人がどのような感情のもとで「高み」に達するのか、例えば、ちゃんと悲しめるのか、ちゃんと喜べるのか、といったことのほうがはるかに大事なのではないかという議論をしていたと思います。
ところが、こうした感情についての議論が、そっくり消えてしまいます。身体的なもの、感情的なものは当然、状況依存的なものです。私の単独の感情などありません。常に誰かとの関係においてしか、感情なんて生じないからです。もちろん、とっても上手な俳優さんだったら、「さあ、悲しんでください」と言ったら、泣くことができます。しかし、われわれは普段そんなことできません。ある状況の中で、もう悲しくてしかたがないとか、そして、ちゃんと悲しいとか、、そうしたことによって、初めて泣くことができるわけです。ですから、こうした状況をきちんと含み込んだ上で判断し、表現できる、こういったプロセスが、人について「正しい」ということを考えるときに、古代中国において論じられていたことだと思います。
●「正しさ」は人との関係によって明らかになる
―― ありがとうございます。非常に重要なご指摘でした。「正しい」という言葉は、ある行為についての判断としてではなく、人に対して使われていたということですね。しかも、中島先生のお話ですと、そこには感情的な要素も含んだあり方ということでした。これが社会全体として、と言っていいのかどうか分かりませんが、みんなで正しい人を目指す社会のあり方だったと理解してよろしいのでしょうか。そこにおいて理想はどのような部分にあったのでしょうか。
納富 今、中島さんがおっしゃったことが、まとめになっていると思います。哲学において「正しい」という「徳」概念は、そもそも人の関係を含み込んだものです。例えば「勇敢である」とは、1人だけで示すことができることかもしれませんが、「正しさ」は1人だけで発揮できるものはできません。そのように考えると、「正しい」という概念においては、人のあり方として一緒に生きることが最初から含み込まれていると考えることができます。その意味で、このことは現代の...