●「以前に比べて最近は」の内容は、客観的に妥当か検証の余地がある
―― それでは次の質問にいきます。まさに「正しさ」に関連する質問です。
「最近、政界や大企業における不祥事が多発しております。不祥事が起きても、以前に比べて責任を取らず開き直り、居座るケースが多く見られます。何が欠落しているのでしょうか」
という質問ですが、いかがでしょうか?
納富 昔から比べて今が悪いのか、私はまだ判断できません。最近については、全てにおいて私は判断を留保しています。例えば、「最近、犯罪がひどくなっている」といいますが、統計的に見ると、昔のほうが重大犯罪は圧倒的に多かったとか。また、今は交通事故も減っているので、例えばあおり運転は昔のほうがもっと大変だっただろうと思います。そういった意味で、「以前に比べて最近は」というのは、私も含め年齢の高い人に多い言い方で、私も時々そうした言い方をしてしまいますが、客観的に妥当かという点については検証の余地があると思います。
●問題が形式的にのみ処理される傾向にある
納富 こうした部分から自覚的に考えていかないと、ステレオタイプに足元をすくわれます。とはいえ、昔と比べてどうかは別にして、最近こうしたことが起こると、あまり責任を取っていないというのは事実だと思います。これについて考えてみると、やはり1つのポイントは、前回までの話のように正義や不正というのは行為についてであり、罰せられるとか、そうした法律上の話は単独的な感じがするということです。それを人のあり方、あるいは自分のあり方として捉える場合、人に言われたから責任を取るのではなく、自分の判断として申し訳なかったと思う「恥」のような情感が問題だと思います。それは、人のあり方の問題であるはずです。
それを感じないがゆえに、形式的な謝罪で終わりにして、ないことにするということが行われているのでしょう。これは、先ほどの問題と、まさに連動しているような感じがします。つまり、「正しさ」ということが基本的に形式的な問題として捉えられており、自分のあり方の問題としては全然理解されていないということです。
●丸山眞男が乗り越えようとした「無責任の体系」
中島 丸山眞男という人が、第二次世界大戦後に、日本はなぜあんなことになってしまったのかということを考えました。そこで出てきたのが、「無責任の体系」という論点です。私は、その構造は今でもあまり変わっていないと考えています。
例えば、大企業の例を挙げられましたが、組織が巨大になっていった場合、具体的なプロセスは見えません。何がそれぞれの部署で行われているのか。そのなかの意思を擦り合わる統一的なプロセスをつくるのは、すごく難しいのです。当然、何か問題が生じた際に、知らなかったとしても「知らない」では済まされません。しかし、そのとき、おそらくトップの人は「なぜこれに私が責任を負わなきゃいけないのか」ということをつくづくは理解しないでしょう。つまり、自分がそれに対して責任があるということが、きちんと身体化されない、そうした「無責任の体系」というか、構造が色濃くあるんだろうと思います。
丸山眞男は、これをなんとか乗り越えようとしました。しかし、彼の乗り越え方は、近代的な、責任を取れる個人の確立を目指すものでしたが、結果的にその方法はうまくいきませんでした。あれだけ頭の良い人がやってダメだったことは、やはりダメなんだろうと私は思うんです。
そうすると、違うアプローチを選んだほうが良いことになります。その際には、組織のあり方と人のあり方の関係性を、もう少し見直したほうがいいのかなと思います。その場合、誰が、何に、どのような責任を取るべきなのかも、一緒に考えたほうがいいでしょう。
例えば、ヤフーのホームページがあります。これをよく使いますが、私の意見がこのホームページに反映されているわけではありません。私は別に、それに対して投票したこともありませんので、責任を取ることもできません。ヤフーの人も、それはそう思うでしょう。いくら使ったとしても、私に責任を負う必要はないのです。でも、民主主義である以上、ある問題に対しては、何らかの形で意思決定に参加する必要があります。それに対してはちゃんと責任を取ろう、というものがあると思うんです。だから、こうした事柄を腑分けしていくだけでも、状況は少し変わるのかなと思います。
●ハンナ・アーレントが「アイヒマン問題」として提起したこと
―― ありがとうございます。図らずも次の質問は、「無責任の構造」に近いお話になるかもしれません。
「必ずしも日本の公益に資するわけではない業務が日々散見されております。それは、個々人の問題というより、構造的な、全体的、根本的な問題...