●「東洋」「西洋」という区別は大雑把かつミスリーディングなレッテル
―― ありがとうございます。今、言葉をめぐる問題について、非常に示唆的なお話をいただきました。実は私は、前職が本の編集者でしたので、納富先生のおっしゃった差別用語については、いろいろと経験しました。実際に編集者がどのように差別用語を考えているのかというと、大体A、B、Cといったランクを設け、先生の文章の校閲をする際には、「先生、この言葉はAクラスの差別用語なので、削ってもいいでしょうか?」とおうかがいします。言葉を、こうしたレベルで考えてしまっているんです。
今の世の中では、レッテル張りをして、全てを判断してしまうところが非常に多いなという感じがしています。今日は是非、両先生に西洋ないし東洋の立場から、哲学において「正しさ」はどのように考えられてきたのかということについて、お話をいただければというように思っております。
納富先生は、ギリシャがご専門です。ギリシャ哲学でいうと、「正しさ」はどう考えられてきたのかについて、ぜひ、お話をお願いできればと思います。
納富 今日の全体のテーマは、「西洋の哲学と東洋の哲学」とのことですね。東洋vs西洋で、中島さんが中国、私が西洋を担当するというように見えます。しかし実は、喋るわれわれとしては、これにはちょっと違和感があります。なぜなら、「東洋」「西洋」という区別自体がかなり大雑把かつミスリーディングなレッテルだからです。そのため、全部とはいいませんが、基本的に「東洋が…」、「西洋が…」ということを言い合っても、あまり意味がないんじゃないかなと思っています。
例えば、同じ西洋哲学の中でも、私がやっているような古代ギリシャの哲学と、近現代の哲学の間にあるギャップは、かなり大きいものがあります。そのため、西洋も別に一枚岩ではないし、もっといえば、ギリシャ哲学の中でもいろいろな考えがありました。ですから、「ギリシャはこうでした。だから…」などと言うのは、ちょっと単純すぎるんじゃないかなという気が一方ではします。ただし他方で、時代によって、われわれと考え方の基本が大きく違うという部分はやっぱりあるので、それは見ていく必要はあると思うんです。このことは、中島さんから中国に関してもお話頂けると思うのですが。