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●明治維新の鍵は尊王攘夷思想にあった
次に、国力問題についてお話ししたいと思います。
明治維新後の日本の立ち位置を考えてみましょう。非常に乱暴な言い方をすると、幕末の日本は、後に近代国家の国民をつくることになる様々な階層の人間を、尊王攘夷という思想によって気持ちを一つにし、明治維新を成功させることが試みられました。単純にこう言うと語弊もあるのですが、取りあえずは攘夷思想によって国民を一枚岩にすることが幕末の狙いだったのです。
奇兵隊や、農民、博徒、商人等、いろいろな立場の人が攘夷のために天皇のもとに集まり、それを阻むものをやっつけるという形で、武士そっちのけで幕末の戦いが始まり、新しい時代が始まっていきました。吉田松陰や高杉晋作、それに続く伊藤博文や山縣有朋たちの考えが、幕末の段階で示されたのです。
●攘夷につながるもとになったのはコレラと天然痘の流行
攘夷について、ここで一つ付け加えておきます。余計なことかもしれませんが、攘夷というのは、当初から思想によって一枚岩であったというわけはありませんでした。皆さんがマスクをしている今の時代に生きていることを踏まえていうと、当時はコレラと天然痘が非常に大きな役割を果たしたのです。
コレラと天然痘は、開国して西洋の船が多く入ってくるようになってから日本でも流行りました。コレラはそれ以前からも流行っていましたが、引き金となったのはペリー来航以後の幕末に、アメリカ人やイギリス人が上海経由でやってきて、中国で流行っているコレラを日本に持ち込んだことです。これによってコレラが大流行し、一般の日本人の西洋イメージは、すごく悪くなりました。こうした病気は、西洋人が持ってきているのだというイメージができてしまったのです。
●西洋人に対する悪いイメージが付与され、攘夷のエネルギーに
もともと西洋のイメージは決して悪くなかったのですが、幕末期になると錦絵等で西洋人が病気を持つ人のように描かれるなど、悪いイメージを付与されるようになりました。鼻が肥大して疱瘡があるような、怖い姿で描かれるようなことが増えました。ペリー来航以前は、そんなことはありませんでした。
天然痘やコレラは、何度も何度も日本を襲いました。文久、安政、万延の時代もそうです。例えば、「東海道五十三次」の歌川広重が亡くなったのも、コレラが原因だといわれています。当時、100万都市といわれていた江戸のコレラによる死者数は、少ない見積もりでは3万人、多い見積もりでは10万人です。つまり、江戸の人口の3~10パーセントがコレラで死んでしまったということです。
長崎等では天然痘の流行もありました。そういうことが繰り返される中で、西洋を国内に入れないことで日本の清潔が保たれ、持続可能になると考えられるようになりました。西洋人がどんどん入ってくるとどんどん悪い病気が流行って、日本人がどんどん疫病に罹ってしまう。貿易で儲けるといっても、そのために国民(当時は国民という概念はありませんでしたが)を落としめてもいいのか。こうした契機が、実は攘夷のエネルギーにつながっていったのです。
ところが、こうした大事な点は、日本史の教科書には書かれてありません。吉田松陰らの思想によって日本中が尊王攘夷になったわけではないのです。実際にはこうした思想は難しくて一般の人には分からなかったでしょう。なぜ西洋が日本に来ないほうがいいのかといえば、彼らが病気を持ち込むと考えたからなのです。これはものすごく重大なことです。特に今のこうした時代状況がその後の歴史を作ってきたということを考えると、現代を考える際にも参考になると思います。
●西洋とうまく付き合いつつ最終的に攘夷を目指す方向へ
とにかく攘夷をするためには実力で西洋を退けなければなりません。こうした攘夷思想の攘夷とは、中華思想の日本版ともいえます。日本が世界の中心であり、西洋諸国を日本が全て従えるというものが正しい攘夷思想です。しかし実際には、ペリーの黒船4隻程度も追っ払えないような状況で、彼らを従えるには実力が伴っていません。そこで、取りあえず日本からなんとか追っ払えないか、ペリーの黒船のようなものが来たときに、武力でやっつけられないかと考えました。そこで長州や薩摩は、薩英戦争や馬関戦争を起こし、一生懸命追っ払おうとしましたが、実現しませんでした。
追っ払えなかったので、次第に考え方が変わっていきました。こうした経験の中で、西洋となんとかうまくやりつつ、植民地にならないような道を模索するようになっていきました。こうして明治維新後、幕府の時代から引き続いて西洋と付き合いつつ、最終的には攘夷を果たそうというのが、日本のモチベーションになっていきました。


