●工業力と科学力に限界を感じ始めた
こうした動きは、日露戦争まででそれなりに一段落つきました。しかしこの時点で既に、日本は限界を感じていました。ペリーの黒船が来航した19世紀後半の時点で、戦争の決め手が工業力と科学力であるということは、すでに日本人にも明らかでしたが、その後の産業文明の速度はますます加速していきました。
日露戦争の時の二百三高地を思い出して頂ければ良いと思いますが、それまでは大きな大砲と機関銃が何といっても重要でした。しかし、これによって突撃すれば突破できたのが、次第にうまくいかなくなりました。これが、乃木希典のあの苦悩につながっていったのです。
乃木希典は愚将のようにいわれていますが、もちろん彼もこの点を理解していました。突撃しても犠牲が増えるだけなので、大砲で旅順の要塞を十分に壊してから突撃させようと、一生懸命考えていました。しかし、海軍は、バルチック艦隊が来る前に旅順が落ちないと日本は負けてしまうから、今すぐ占領しろと主張しました。しかも、その時、大砲の弾がないので、突撃させるしかありませんでした。
そして突撃させた結果、ロシア軍の弾もなくなっていきました。実はこの時、児玉源太郎も来ていましたが、火力の集中はそこまで行われませんでした。しかし、できるだけたくさんの大砲を打とうというイメージも手伝って、ようやく旅順を陥落させることができました。これが日露戦争の経過です。
●日本の戦い方は日本刀による白兵戦が基本だった
日本はそれまで、いざという時には日本刀による白兵戦に持ち込み、精神力で突撃していくという発想でした。当時は向こうがいくら鉄砲を撃っていても、一度に1発しか撃てない時代でした。撃ちまくれないのです。大砲の命中率もあまり高くなく、自分たちの影響が受ける近くには打てませんでした。そうすると結局、そばまで行けば危険はなくなるので、日本刀や銃剣で戦えば、陸戦でケリがついていました。
ところが日露戦争の時代になると、機関銃が本格的に登場します。南北戦争の頃から機関銃はあり、戊辰戦争の時にはすでに河井継之助がその簡易版を製造し、それによって長岡藩は官軍を苦しめました。しかし日露戦争はこの頃と比べ物にならないくらい発射する弾の数が増えました。そのため、大砲や機関銃によって戦争が決まってしまうという時代が到来したのです。
古代から戦国時代を通して、戦争の仕方はずっと変わっていませんでした。いくら相手が弾を撃ちまくっても、とにかくワァーとそばまで行ってしまえば、鉄砲を構えているうちに斬ることができました。それで勝てたのです。しかし今や、いくら近くまで行こうとしても、機関銃で撃ちまくられたら近づけません。それでも近づこうとすれば、死屍累々になってしまいます。
●世紀転換期から戦争の形態は大きく変わった
大砲の性能も、どんどん上がっていきました。長距離の命中率が上昇したのです。さらに、比較的近距離でも命中率や破壊力がある、小規模な大砲も発達していきました。
これによって戦争のイメージも変わります。日清戦争や日露戦争までは、戦争は短期で、精神力の強い軍隊がやれば良いのだというイメージでした。それが日露戦争の1904~5年頃に、機関銃の弾を撃ちまくるのが戦争だというイメージになっていきます。第一次世界大戦になると、飛行機や戦車、さらには生物化学兵器も登場します。特に毒ガスです。こうして、19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、戦争の形態はものすごく変わっていきました。
●日本の突撃神話が第一次世界大戦の戦死者に大きな影響を及ぼす
ヨーロッパは普仏戦争以来、文明国同士の戦争をほとんどしてきませんでした。こういうとトルコ・オスマン帝国に怒られてしまいますが、さまざまな戦争はありつつ、フランスやドイツ、イギリス等が正面きって行った戦争は、普仏戦争以来ありませんでした。しかし、アジア周辺では日清戦争や日露戦争が生じ、その時代に機関銃が発達しました。先ほど言った通り、日本軍は日露戦争の時、精神力を重視していてもダメだと分かりつつ、それでも突撃し旅順の要塞を落とせてしまいました。実はその神話が、観戦武官や実際に見ていた人を通じて、ヨーロッパに伝わりました。そのため、第一次世界大戦の時点では、ドイツ軍もフランス軍も突撃することでまだ勝てると思っていました。
第一次世界大戦の前半で、1日に何万人も戦死するような異常な状況が生じます。これは、突破できると思って何万人も突撃した結果、機関銃で死んでしまった結果です。これによって、第一次世界大戦全体では、1000万人という信じられないような犠牲が出ました。主に陸上戦闘によるものですが、原子爆弾もまだない時代に、1000万人が死ぬというのは大変なことで...