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和歌には社会的な意義もあった…『古今和歌集』の思想とは

『古今和歌集』仮名序を読む(5)いにしへの歌

渡部泰明
東京大学名誉教授/国文学研究資料館館長
情報・テキスト
「仮名序」では「いにしへの歌」を通して歌の社会的意義が述べられる。『古今和歌集』が編纂された頃(900年頃)について、「仮名序」は「今の世の中は派手さを求め、人の心も移ろいやすくなってしまったがために、不実な歌、いい加減な歌ばかりが詠まれるようになった」と語る。しかし、古代の歌はそうではなかった。古代の歌は天皇が「臣下の賢愚を判断する」という社会的意義も持っていたと強調するのである。実は、ここに『古今和歌集』の思想がある。そして、私的な思いと社会的意義を両立するために、「レトリック」が有効な技法となるのである。(全6話中第5話)
時間:08:13
収録日:2023/07/05
追加日:2023/12/06
カテゴリー:
キーワード:
≪全文≫

●和歌は本来は「公的な意味」を保ち、「社会的な意義」を持つもの


 「いにしへの歌

 今の世の中、色につき人の心花になりにけるより、あだなる歌、はかなきことのみいでくれば、色好みの家に埋もれ木の人しれぬこととなりて、まめなるところには花すすきほに出だすべきことにもあらずなりにたり。

 その始めを思へばかかるべくなむあらぬ。いにしへの世々の帝、春の花のあした秋の月の夜ごとにさぶらふ人々を召して、ことにつけつつ歌をたてまつらしめたまふ。あるは花をそふとてたよりなき所にまどひ、あるは月を思ふとて、しるべなき闇にたどれる心々を見給ひて、賢し、愚かなりと知ろしめしけむ。しかあるのみにあらず、さざれ石にたとへ、筑波山にかけて君をねがひ、よろこび身にすぎたのしび心にあまり、富士の煙によそへて人を恋ひ、松虫の音に友をしのび、高砂・住の江の松も相生(あひおい)のやうにおぼえ、男山の昔を思ひいでて、女郎花のひとときをくねるにも、歌をいひてぞなぐさめける」

 はい。(今回は)この部分について(順に)考えてまいりましょう。

 「今の世の中は派手さを求め、人の心も移ろいやすくなってしまったがために、不実な歌、いい加減な歌ばかりが詠まれるようになって、好き者の家の中に埋もれ切ってしまい、それらの歌を誰も知らなくなってしまった。改まった公的なところにしっかりと提出することもなくなってしまった。

 しかし、その初めを思うと、こんなはずではなかった。いにしえであれば、その古代の代々の天皇は春の花の朝、あるいは秋の月の夜、仕えている人々を召して、折々につけて歌を献上させなさった。あるときは花をたとえると言って、頼りないところに迷い込んでしまい、あるときは月を思う心を表現しようとして、道案内もない闇に迷子になってしまう。そんな心々、詠んだ人の心々をご覧になって、ああ、こいつは賢い。いや、こいつは愚かだ、とご判断なさったのだろう。」

 まずちょっとここまでの部分で考えてみたいと思います。

 先ほど(まで)述べたように、古代の歌は歌の父母から始まり、そして6種類に分かれて、歌が広まっていった。その後はどうなっただろう。いや、今現在はどうも不誠実な、中身のない歌ばかりである。特に恋の歌が詠まれることが多くなり、もうまったく私的に歌を詠むようになってしまって、公的な歌、社会的に意義のある歌というものが提出されなくなり、公にされなくなった。これはおかしなことだ。

 なぜなら、初めはそうではなかったはずだ。代々の天皇たちが美しい季節ごとにお仕えしている歌人たちをお召しになって、その折々に歌を献上させたのである。献上されたそれらの歌を見て、あるいは花にたとえて何かの心を表現するときに、何ともはっきりしないような歌を詠んだり、あるいは月に対する思いを詠もうとして、闇の中に迷子になってしまう(ここでは月の縁語で「闇」といっているわけです)。

 これらは愚かな人のたとえですが、そういうような人々の表現を見て、この人は賢い、この人は愚かだというように賢愚を判断した。臣下の賢愚を判断するのに使われた。つまり、社会的に意義のあるものだったということです。

 でも、今はそうなってはおらず私的なものになってしまった。「これを公的なものにしなければならない」と言いたいに違いないわけです。

 ここに『古今和歌集』の「仮名序」の、もっともいいたいことがあるのではないかと私は考えています。

 つまり、和歌というのは社会的な詩(ポエムの詩のこと)で、ポエムという点では心を表現するものです。そのことは『古今和歌集』「仮名序」の冒頭でもいっていました。ただ、それだけではなくて、それらが「公的な意味」を保ち、社会的な意義を持つものでなければならないと考えているのが、まさしくこの『古今和歌集』「仮名序」の思想だと考えていいと思うわけです。


●和歌が「公のもの」になり得る大きなポイントはレトリック


 では、公的な意味を持ちながら心を表現するには、どうしたらいいのか。

 それがその後に述べられていて、さざれ石にたとえたり、筑波山を例にして人への思いを表したり、あるいは自分が喜んでいたり楽しんでいたりすることを表現したり、あるいは富士の煙に関係づけて恋の思いを表す。マツムシの鳴く音で友をしのび、高砂の松や住吉の松が自分と一緒に老いていくと感じたりする。

 昔のことを思い出すのに、石清水八幡のある男山(京都府八幡市の山)を例に引いたりする。あるいは、女性に対して何か皮肉をいいたいときに「おみなえし(女郎花)」を使ってみたりする。こういうふうに、物事に関係づけて歌を詠んで、心を慰めたということです。

 つまり、このように物事によそえるということは、どうやら社会的な意義、公的な意...
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