●人の心を種としてよろづの言の葉とぞ――植物の比喩で生まれる生命感
まず、読みます。
「やまとうたは、人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、こと・わざしげきものなれば、心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水にすむかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、猛き武士(もののふ)の心をもなぐさむるは歌なり」
では、訳してみます。
「和歌は人の心を種として、多くの言葉となったものである。この世に生きる人は関わり合う事柄がまことに多いので、心に思うことを、見るものや、聞くものに託して歌に詠むのである。花に鳴くウグイスや、水にすむカワズの声を聞くと、全て生命あるもので歌を詠まないものはない。力を入れないで天地を動かし、目に見えない心霊を感動させ、男女の仲を打ち解けさせ、荒々しい武士の心をなだめるのが歌というものである」
これは冒頭の大変有名な部分です。その中でもさらに冒頭の一句、「やまとうたは、人の心を種としてよろずの言の葉とぞなれりける」の内容ですが、『詩経』(「毛詩」ともいいますが)の中に「詩というものは心を表すものである。心をかたちにするものである」という言葉があり、それを踏まえています。
しかし、注目していただきたいのは、「人の心を種として、よろづの言の葉…」というときに、「言葉」の意味で、葉っぱを表す字を用いて「言の葉」と言っているところ、これは(種の)縁語に当たります。さらにその後、「世の中にある人、こと・わざしげきものなれば」の「しげきなる」というのも「茂っている」の「しげ」ですから、これもまた葉の縁語になっているわけです。
つまり、「(歌は)心を言葉で表すものだ」という趣旨は中国から来たものですが、それを植物の比喩によって、植物に「よそえて」表現しているところが、非常に独自といいますか、独創的なところです。それは、やはり歌が生まれるところには生命感があり、生命が宿っているという信念が背景にあるのだろうと捉えてみたいと思います。
●ものに「託して表現する」――意味を二重に織り重ねる掛詞の技法
それから「心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり」と言っているところにも注目してください。
この場合、「つけて」というのは「託して」で、見るもの聞くものに関わらせ(「ことよせて」といってもいいですが)、関係づけて歌を詠んでいる。「言ひ出す」は「歌を詠む」ということなので、ここももちろん非常に大事なところです。私たちは考えをそのまま表現するのではなく、見聞したものに託し、関わらせて表現するのだ、ということです。ここにも非常に独自なものが(あります)。
そして、「花に鳴く鶯、水にすむかはづ」。こうしたものも、その声を聞いてみると、あらゆる生きているものはみんな歌を詠むということが分かる。
ここは、基本的にはウグイスやカワズ(いろいろ説はありますが、一応「カエル」と考えておきましょう)も、人間でいう「歌」にあたるものを詠んでいる。ウグイスの「ホーホケキョ」という声を聞けば、その「ホーホケキョ」もウグイスにとっての歌であるというようなことです。あらゆるもの、生きているものが歌を詠むということになる。虫であってもそうだ。これが基本的な意味合いですが、私はもう一つ、意味があるのではないかと思っています。
ウグイスの歌を聞いて私たちは歌を詠みます。カワズの声を聞いて、私たちは歌を詠みます。つまり、ここにはもう一つ、「ウグイスやカワズの声を聞いて私たちも歌を詠む」という意味が、表立ってはいなくても滑り込んでいると考えたいと思います。
ずいぶん複雑だとお考えかもしれませんが、いってみれば「掛詞」という、『古今集(古今和歌集)』でも大変大事な表現、意味を二重に織り重ねて表現する技法に通じるものがあるだろうと考えているわけです。そして、それこそが、「託して表現する」という仮名序自体の言いたいことを仮名序自体が表現しているともいえるのです。
●まったく力を入れないのに「天地を動かす」
そして最後に、歌にはどういう機能があるかということを述べます。
まったく力を入れないのに「天地を動かす」のである。いや、本当に天地を動かすのだろうかと、ちょっと驚いてしまいます。次に「鬼神」とありますが、これは心霊、スピリットの類いと考えればいいと思います。怖い鬼というより目に見えない霊の類いです。そうしたもの、つまりこの世ならぬ超常的な存在などをも感動させ、あわれと思わせる。
しかも人間だって、男女の仲...