●最初の三十一文字はスサノオノミコトの作
(2)和歌の始まり。
〈この歌、天地(あめつち)の開け始まりける時より出で来にけり。
しかあれども世に伝はることは、ひさかたの天にして下照姫にはじまり、
あらかねの地(つち)にしては素戔嗚(すさのをの)尊(みこと)よりぞ起こりける。ちはやぶる神世には歌の文字もさだまらず、すなほにして事の心わきがたかりけらし。人の世となりて素戔嗚尊よりぞ、三十(みそ)文字余りひと文字はよみける。〉
まず、ここのところまでで切っておきましょう。訳してみます。
「この歌というものは天地開闢と共に出現した。しかし、この世に伝わったのは天上世界においてはシタテルヒメに始まり、地上ではスサノオノミコトから始まった。神世には歌の定型も定まっておらず、自然のままで、物事の内容をきちんと言語化しにくかったのだろう。人の世となってスサノオノミコトから三十一字の和歌を詠むようになった。」
その最初の和歌として、しばしば挙げられるのが「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに八重垣つくるその八重垣を」で、おそらくこの歌を念頭に置いて述べているのだろうと思います。
スサノオノミコトは、いうまでもなくイザナギ・イザナミの子どもで、アマテラスの弟です。高天原を追い出され、出雲に下ってクシナダヒメと結婚しました。その結婚に際しての歌だというわけです。
「八色の雲の立つ」と、平安時代では解釈されていますが、これは出雲の枕詞です。「出雲の八重垣を」ですが、大切な妻を据えておくために何十もの垣を作った、その八重垣を作ったという、いわば妻を称える歌ですね。そういう歌をスサノオノミコトが詠んだとされています。それを念頭に置いているのだろうと思います。
●仁徳天皇の御代を歌った「難波津の歌」は歌の父のようなもの
続けます。
〈難波津の歌は帝の御はじめなり。大鶺鴒(おほさざき)の帝の難波津にて皇子ときこえける時、東宮をたがひにゆづりて位につきたまはで三年になりにければ、王仁(わに)といふ人のいぶかり思ひてよみてたてまつりける歌なり。この花は梅の花をいふなるべし。安積山の言葉は采女のたはぶれよりよみて、このふたうたは歌の父母のやうにてぞ、手習ふ人の始めにもしける〉
「難波津の歌は仁徳天皇の御代の初めに際しての歌である。安積山の歌は采女が座興で詠んだ歌で、この2首は歌の父母のようなもので、字を習う人が初めに書く歌である」という内容が書かれています。
「難波津の歌」というのは、〈難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花〉のこと。「難波の港に咲いているよ、この花が。冬はじっとこもっていたけれども、さあ、今は春になったとばかり咲いているよ。この花が」という、これが「難波津の歌」で、歌として最初に習う歌です。
例えば、「サイタ サイタ サクラガ サイタ」というフレーズが(かつての)国語教科書の冒頭に出てくるものとして有名です。これは、そういうものに当たるのでしょうか。
「大鶺鴒の帝」は仁徳天皇とされています。応神天皇の皇子です。5世紀前半頃の天皇で、聖帝とされる伝承が残っています。なんといっても有名なのは、大阪府堺市の大仙古墳。これが仁徳天皇の陵墓ではないかとされています。
●歌の母「安積山の言葉」も思いを物によそえて…
「安積山の言葉」とは、〈安積山影さへ見ゆる山の井のあさくは人を思ふものかは〉という歌のことを指しています。
安積山は現在の福島県郡山市の額取山を指すとされていますが、それがどこであれ、その影までが見える山の井(泉、湧き水)は、湧き水ですからどうしても浅い。だけれども、私はあなたのことを浅く思ってはおりませんよ、と。ここでは、安積山の「あさ」と浅いの「あさ」がまた響いています。この歌をまるで歌の父母のようにした。そのように大事にしていたといわれています。
このように、歌の流れを捉えていくわけですが、まずこの2首についてもちょっと注目していただきたいと思います。
難波津の歌では、仁徳天皇のことを歌っているといっても、帝も何も全然出てこない。ただ、「この花」は、おそらく梅だろうとされていて、梅が仁徳天皇のことを表しているのだと考えられる。つまり、それとなく表しているわけで、「隠喩」や「暗喩」と呼ばれるような類の歌だと考えられているわけです。
それに比べると、安積山のほうは、そもそも「あさくは人を思うものかは」というような恋の歌です。それを、天皇への思いの歌と捉えることもできますが、おそらく恋の歌がもともとなのでしょう。この場合は、(その思いを)安積山の麓にある山の井(泉)によそえて表現しているわけです。
そのように、隠喩と直喩の違い、はっきり比喩として用いるかどうかの違...