●初期吉本隆明――〈関係の絶対性〉のなかに見る「倫理」
皆さん、こんにちは。文芸批評家の浜崎洋介です。今日は吉本隆明の思想の第2回目です。いよいよ吉本隆明が何を語ったのか、あるいは何を価値としたのか、それについて皆さんと一緒に見ていきたいなと思っています。
ちょっと難しい言葉が2つ出てきます。先に言っておきますが、「大衆の原像」という言葉と、「対幻想」という言葉です。もちろん、これはのちに私自身が解説することにはなりますが、これをめぐって吉本隆明は思考を紡いだといっていいのではないかと思っています。
吉本隆明というのは難しい言葉で語る人なので、ですから「戦後最大の思想家」などと言われてしまうのですが、一方でそれを解きほぐしていくと、非常に単純なことをいっていたのではないでしょうか。あるいは小林秀雄についての講義でもやりましたが、まさに日本の自然ということを語ったのではないかと思えるところも多々あります。そのあたりを今日は拾っていきたいと思っています。
まず、吉本隆明の思想を、初期から中期、それから後期にかけての流れとして、本当に簡単にということになりますが、まとめておきたいと思います。
初期においては、彼自身は詩人として登場してくることになります。そのときはどういう感覚かというと、まさに戦後において社会的な秩序が変わったわけです。皇国思想から一気に戦後民主主義になり、全然違うものになります。
ということは、社会的な理論からあぶれてしまった自分を、どこか持て余すことになるのです。そして内向的になっていくわけです。内向的になっていきながら、社会化されている言葉でそれが語れないときに人はどうなるかというと、詩人になるのです。詩の言葉でしか自分の心を、自分の思いを語ることができなくなります。
そして最初に、その詩の言葉と内的な言葉と社会的な批評の言葉を、どこか橋渡ししようと思って書いたのが『高村光太郎』です。この人自身も詩人ですが、戦前において詩人として出立して、造形美術、彫刻などもやりながら、戦争中は皇国史観、つまり国体思想にずいぶんと肩入れした人です。そして、大正デモクラシーや大正教養主義を語っていた高村光太郎がなぜ皇国思想に行ったのかを問うような、そのような著作を書いたりします。
あるいは『転向論』ですが、これもまさに、なぜ戦前の左翼の運動家たちは皇国思想に転向していったのか、そこにはどういう理由があったのかを問うた、そのような文章です。あるいは『抒情の論理』、このようなものをずっと書いていくことになります。
つまりは敗戦、皇国思想の崩壊と受け止めたわけですが、それをどうやって受け止めるべきなのかということを模索していったといっていいでしょう。そして行き着いたその言葉が、〈関係の絶対性〉という言葉だったのです。
また少し難しい言葉になりますが、つまり、人は言葉で言うことはいくらでも言えるし、きれいごとなどはいくらでも言えます。それは、皇国思想のきれいごと、国体思想のきれいごと、あるいは平和主義のきれいごと、戦後民主主義のきれいごとなどは全部言えるのであり、ということは、そのようなものによって私たちはその言語内容の正しさを認めるわけにはいかないということをいうわけです。
そのときに持ってくるのが、「マチウ書試論」という1つのエッセーです。これは何かというと、「マタイ伝」というのが新約聖書にあるのですが、そのマタイ伝についての評論です。何をいっているのかというと、まさにマタイ伝はいっていることは素晴らしいですし、イエスの行動に即して聖書の正義を語っているのですが、しかし重要なのはその裏だというわけです。
マタイ伝は、実は現実に適応できなかった人間が、自分のことを自己正当化しているだけの書ではないのかと、吉本は問うているといっていいと思います。例えば、その一節だけ引用しておきましょう。
「人間の意志はなるほど、選択する自由をもっている。選択のなかに、自由の意志がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な選択にかけられた人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものに過ぎない。〔中略〕人間は狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信じることもできるし、貧困と不合理な立法を守ることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。僕たちは、この矛盾を断ち切ろうとするときだけは、自分の発想の底をえぐり出してみる。そのとき僕たちの孤独がある」
というように言ってみせるわけです。つまり、人間が自由に選ぼうと思ったとき、意識...