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吉本隆明の思想を凝縮した敗戦時20歳の回想「戦争と世代」

小林秀雄と吉本隆明―「断絶」を乗り越える(4)純粋戦中世代の葛藤―吉本隆明の「起点」

浜崎洋介
文芸批評家/日本大学芸術学部非常勤講師
情報・テキスト
「戦後最大の思想家」ともいわれる吉本隆明について考える第4話。伝統を重視する小林秀雄を保守と捉えるならば、吉本隆明は新左翼を肯定する左派のイメージが強いが、実際は異なる。そこで、まずは純粋戦中世代である吉本隆明の遍歴時代をたどりながら、その後の思想的背景を理解していきたい。(全7話中第4話)
時間:13:51
収録日:2023/04/07
追加日:2023/09/05
キーワード:
≪全文≫

●国体思想の崩壊と価値観の逆転に苦悩する世代


 こんにちは。文芸批評家の浜崎洋介です。小林秀雄と吉本隆明の話をずっと続けてきているわけですが、今日は第4回目ということになります。「純粋戦中世代の葛藤」と題して、吉本隆明という人間がどこから思考を始めたのかということを見ておきたいと思います。

 小林秀雄はまさに前近代と近代、その狭間の葛藤を、彼自身はそれを引き受けて、それをどのように調整すればいいのか、それはまさしく日本人の自然、日本人の直観、それに基づいて自分たちの必要と不必要、それを区別していくということだった、と言ったのだとすれば、吉本隆明も似たようなもので、つまりは戦前と戦後のいらないものをまさに排除して、そして自分の中にそれでも残ったものをつなげて、戦前と戦後を生きようという意見を言った人間です。

 と同時に、「純粋戦中世代」と先ほど言いましたが、ここが重要なのです。純粋戦中世代とは何かというと、まさに昭和元年ほどに、あるいは大正の末期に生まれて、そして少国民教育というべきか、つまりは、お前たちは戦争に行くのだという教育をされて、思春期の10年間をほぼあの戦争の中(日中戦争の中、あるいは大東亜戦争、太平洋戦争の中)で生きたという人間なのです。

 ということは、自分たちはいつか死ぬんだということを覚悟させられた世代であり、そのことによって初めて自分がどう死ぬのかということも自分でよく考えた、あるいは自分でどう納得しようかということで葛藤した、そういう世代なのです。

 それがいきなり、1945年の8月14日にポツダム宣言を受諾して、翌15日に天皇による玉音放送があるのです。これによって一気に世界が反転するのです。死ぬべきだったはずの自分が生き残る。あるいは、永遠だと考えられていた天皇、永遠だと考えられていた国体、それが音を立てて崩れていく。そんな体験をした、そういう世代だと考えていただければいいのではないかと思います。

 実際、被災というか、被害ですが、戦争の被害だけを考えてもものすごく膨大なものでした。日本近代史においても、これしかないというような被害だったといっていいでしょう。軍人・軍属の死亡・行方不明者は186万人といわれています。一般国民の死亡・行方不明者は66万人。罹災家屋においては236万戸、罹災者は875万人ですから約1000万人です。全死亡者数に関しては、いろいろな説があるのですが、およそ300万人から340万人といわれています。

 決定的なのは次です。天皇の人間宣言が昭和21年の1月になされます。そしてそれと同じくして、時をほとんど同じくして極東国際軍事裁判が行われました。いわゆる東京裁判です。これが行われて、今までやってきたことが全部裁断されるのです。

 もちろん、その裁判が正しかったか、間違っていたかということは、議論の余地があると思いますが、重要なのは、まさにそこで戦前と戦後の価値観が逆転したということです。そのように思ってしまったということです。

 そこにおいて初めて、日本近代をこれまで支えてきた国体思想、あるいは皇国思想といってもいいかもしれませんが、それはいったい何だったのか。あるいは、それが崩壊したあとに私たちはどうやってこの世界で生きていけばいいのか。そのようなことの問題に直面する世代が出てくることになります。


●戦争という時代背景から理系に進まされる吉本隆明


 実は吉本隆明も先ほど言ったように、純粋戦中世代なのですが、他にも有名なところでいうと、三島由紀夫がほぼ同じです。ほとんど同世代、同級生です。あとは、橋川文三という政治学者がおりますが、非常に影響力のある政治学者です。この人も実はこの純粋戦中世代なのです。

 彼らはやはり、戦前というものにこだわりを持っています。それはいったい何だったのかということを、彼らは常に問い質してきました。吉本隆明においてもそれは例外ではなかったといっていいと思います。その彼らがまさに戦後を迎えることにおいて、精神的虚脱と混乱に見舞われ、それをどう乗り越えるのかという課題が生まれたと考えていただければよいと思います。

 その上で、吉本隆明の履歴というか、遍歴時代を少し見ておきたいと思います。大正末期の1924年、あるいは大正13年に東京の京橋区の月島に生まれています。重要なのは、家が月島のしかも船大工で、その三男ということです。二重三重にエリートコースから外れているのです。まず、船大工ですから職人さんの子どもであることと、そして長男ではありませんから、引き継がなくていいということです。

 そのように生まれてくるのですが、重要なのは地元の私塾に入って、そこで勉学をしているこ...
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