●集団で共有される記憶を作り上げる呪文としての序詞
私は序詞というのは、集団で共有される記憶をつくり上げる呪文であると考えます。なかなか分かりにくい表現かもしれません。特に、記憶をつくり上げるという部分が、分かりにくいかと思いますので、ご説明いたします。
一つの例として、『古今集』の歌を挙げましょう。
「春日野の雪間を分けて生ひ出で来る草のはつかに見えし君かも」
これは壬生忠岑の歌です。この歌が詠まれた情景に関してご説明します。壬生忠見は、奈良で行われる春日祭に出掛けました。これは、春日大社で行われる大変大きなお祭りです。それを都人が見に行くのです。その時に女性たちも見物に出てきます。ですが、高貴な女性は牛車で行くので、顔は見せないようにしています。しかし、それに目を付けた男が壬生忠岑だったのです。「あ、すてきな女性がいる」と思って、どういう顔をしているかは分からないのですが、その家を訪ねてラブレターを送りました。その際の歌がこれです。
「春日野に積もった雪の間から萌え出てくる草の姿はほんのわずか。わずかに姿を見せたあなただった」という意味です。チラッと見た、あるいは、すだれに映るシルエットでも見たのか、その点を歌っているのでしょう。
この場合、「春日野の雪間を分けて生ひ出で来る草の」までが序詞です。わずかにという意味の「はつかに」という言葉を導き出す序詞になっています。この序詞は、確かに「はつかに」を導き出すためだけに用いられていますが、全くこの場と関係ないわけではありません。むしろ非常に深く関わっています。
春日野で行われる春日祭にちなんで、また春日祭が行われる季節にもちなんで、雪の間から出てくる草という言い方をしているのです。
まず、「春日野の」と言う部分で、大きな場所が示されます。そして「雪」ですが、一面に雪がまだ残っているわけです。ところが、その雪の間からわずかに草が出てきている。謎めいていますね。読者は、きっとハラハラしながら、一体何なのだろうと思うはずです。
そして、最後の部分で「はつかに」、つまりわずかに出てきた草のように、わずかにあなたを見た、そして恋をしてしまったということです。チラッと見ただけでも恋をしてしまいまうものですから。その恋という結論に向けて、まるで自分でもどうしようもない運命に翻弄されているような流れが、この歌の言葉の中でつくり上げられています。
序詞というのは、自分でもどうしようもない運命に導かれるということを表現する、そのような気分を生み出す側面があると思います。序詞は結局、言葉の偶然なのです。
「はつかに」という言葉、つまりわずかにあなたを見たという表現と、草がわずかに出てくるという表現に関して、音が似ているというのは、いってみれば偶然なのです。
●序詞の中に含まれる偶然性、運命性
例えば、ヨーロッパの人たちにとってすごく分かりにくいのは、このような点なのです。この歌では比較的意味の関わりもありますが、意味よりも音の偶然性に頼っているようで、詩として不完全な感じがするとか、きちんと論理立てられていないなどの言い方をされることがあります。そうではなく、その偶然であるところが重要なのです。この表現は、ある種の運命を感じさせて、自分でもどうしようもなく、私は恋をする運命にあったのだという気分を醸成する。そこを、やはり味わうべきだろうと思います。
おそらく、この歌をつくる時には、逆からつくったのだと思います。「わずかにあなたを見た。わずかに、はつかに。『はつかに』を導き出すのに、良い言葉はないかな」と、「それは雪から生えてくる草だな。その草は、春日野にしよう」というように、言葉としては逆から徐々に核心に迫っていくのです。ちょうど映画のフィルムを逆回転させると、ヒューっといった感じで吸い込まれるような感覚がしますよね。そのような形で、自分でもどうしようもない流れに吸い込まれていく。それを今、「運命」と言ったわけです。
そのような気分をつくり上げる。先ほど「呪文をつくり上げる」と言いました。壬生忠岑の歌では相手の女性と2人ですが、2人で共有できるような記憶も含めて、集団で共有される記憶を言葉の力でつくり上げていくという働きがあると思います。
●声を合わせることで集団の記憶を形成する
もう一つ重要なことは、声を合わせるということです。例えば、以下の和歌を見てみましょう。
「をとめらが袖ふる山の瑞垣の久しき時ゆ思ひきわれは」
「巻向(まきむく)の痛足(あなし)の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む」
「この山の峰に近しと我が見つる月の空なる恋もするかも」
これらにも、序詞が用いられています。例えば、最後の例では「この山の峰...