●見立ては世界の関連付けを広げる起爆剤となる
さて、ここまで、見立ての原理的な在り方、基本的な在り方を解説してきました。ただ、ことさら見立てに着目してしまうと、見立てを表現するためだけに歌がつくられたという印象を受けます。しかし、そうした考え方では、その当時の歌人の意識とはずれてしまうだろうと思います。
見立てが表現したいのではなく、彼らは良い歌をつくりたかった、あくまでもその意識が中心にあるのです。その中で、見立てはどのように働いたかという点が重要だと思います。最後に、当時の歌人の心に沿って、見立てを取り上げるとどうなるかということをお話ししたいと思います。
一言でいうならば、見立ては別の言葉を引き寄せる起爆剤になっているといえます。いくつか例を見てみましょう。
「竜田姫たむくる神のあればこそ秋の木の葉の幣(ぬさ)と散るらめ」
「秋の山紅葉を幣とたむくればすむ我さへぞ旅ごこちする」
「神なびの山をすぎ行く秋なれば竜田河にぞ幣はたむくる」
「このたびは幣もとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに」
最後の歌は、百人一首に所収されている大変有名な菅原道真の歌です。
今取り上げた歌は、どれも散る紅葉を「幣(ぬさ)」に見立てています。幣とは、いろんな布を小さく切ったものです。旅の安全を祈るために、道祖神の神様、つまり旅の神様の前で幣をまき散らしていたのです。
幣には当然さまざまな色があるので、それをまき散らすと、ちょうど紅葉が散るのとよく似ています。確かによく似ているのでしょう。そうして、紅葉を幣に見立てるという表現がありました。
先ほどお話しした、紅葉を錦に見立てることと、この見立てが連動していることはお分かりいただけるかと思います。紅葉は錦のようです。そして、錦をチョキチョキ切ってしまえば、今度は幣になります。このように、幣の見立てが、紅葉と錦の見立てのいわば発展系として生まれてきたということが分かります。
さらに、幣は旅の安全を祈って行う神事で用いられます。そうすると、神様や旅とも結び付き、世界が広がっていきます。一方で、まるで神様の仕業のようなこの美しい紅葉などと、別の方向にも世界がまた広がっていきます。神様の仕業というと少し変な言い方かもしれませんが、現代人の感覚からすれば、大自然の力への感動といったら良いかもしれません。
以上のように、一つの見立てが、連想によって次々とさまざまな言葉に広がっていく。見立ては、そうした連想を引き起こす起爆剤になっているという点を、ここで強調したいのです。この連想は、特に和歌の世界では非常に重要です。連想というと、個人個人バラバラで別々のものという印象があるかと思います。他の人が何を連想しているか分かりません。
ところが、和歌の世界では分かります。和歌の世界にはある程度パターンや様式があるので、おおむねこのように連想していくものだと分かっています。連想が共通するということは、すごいことなのです。心が一つになっていく。和歌の力とは、実はそういうところにあるのではないかと、私は考えています。
●在原業平の和歌にみる見立ての役割
このように、連想で歌の言葉が広がっていく例として、百人一首からもう一つ取り上げましょう。
「ちはやぶる神代も聞かず竜田川から紅に水くくるとは」
「神代にも聞いたことがない。竜田川が韓紅(からくれない)色に水をくくり染めにするとは」という意味です。これは、在原業平の大変有名な歌です。あの大変有名な歌人である在原業平の百人一首に収められた和歌がこれなのかと、少し悪い評判を聞くこともあります。しかし、私はこの歌は優れていると思いますし、この歌を選んだ定家はさすがだと思います。その理由は、言葉の連想力が素晴らしいという点にあります。
「神代にも聞いたことがない」と言っているわけなので、大げさだと思いますよね。ただ、「神代のようだ」といえばやはり大げさですが、「神代にも聞いたことがない」ですから、なかなかいえないと思うのです。
つまり、神様の世界を持ち出しながら否定しているということで、むしろ、神様の世界ではなく、あるいは神様の世界としか思えないがこれは現実なのだと思わせる。これは屏風に描かれた絵をほめている歌ですが、そのような素晴らしい絵だと褒めているのです。神の視点をいったん持ち出すことで、あり得ないような現実を持ち出しています。しかし、これは絵なので、現実ではありません。そこがまた非常に面白い点です。
ただ、少なくとも、この歌は屏風に描かれた絵の紅葉の美しさを賛嘆しています。目の前に現れた風景を別のものに変換してしまう。「神代も聞かず」という非常に大げさな表現を使って、いわば変身を行うのです。そして、何...