●枕詞よりも長く、使い方が固定的でない序詞
今回は、和歌のレトリックの一つである序詞(じょことば)について、お話をしたいと思います。「じょし」と読んでいただいても構いませんが、私は「じょことば」と言い習わしているので、そちらで統一させていただきます。
この序詞について、大学の教室などで「序詞とはどういうものだろうか」と学生に尋ねると、学生もあまりよく知らないので「枕詞の長いもの。でも一回一回違うんだったかな」などと答えますが、実はこれは結構正しいのです。
言い方が少し幼いので、もう少しきちんと答えてほしいとは思いますが、この回答は概ね正しくて、序詞とは枕詞の長いものを指します。ところが、枕詞はおおむね同じ言葉を同じ言葉が修飾すると決まっていますが、序詞は一回限りであることが多いのです。特定の言葉を導き出すという点では同じでも、序詞は基本的には一回限りで終わり、二回以上は用いません。つまり、使い方が固定的ではないということです。
具体的な例を見てみましょう。
「時鳥(ほととぎす)鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな」
「夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものそ」
「海(わた)の底沖つ白浪たつた山いつか越えなむ妹があたり見む」
3つの序詞を用いた歌を取り上げましたが、それぞれどの部分が序詞でしょうか。
まず1番目の和歌に関しては、「時鳥鳴くや五月のあやめ草」という部分が序詞で、「あやめ」という言葉を導き出しています。
2番目の和歌に関しては、「夏の野の茂みに咲ける姫百合の」という部分が序詞で、「知らえぬ」という言葉を導き出しています。
3番目の和歌に関しては、「海の底沖つ白浪」という部分が序詞です。今回は2句だけです。これが、白波(白浪)は立ちますから「たつ」を導き出していて、この「たつ」が「たつた山」に掛かっています。つまり、「たつた山」に「たつ」が掛けられていて、その「たつ」を導き出す序詞が「海の底沖つ白浪」なのです。
さらに言いますと、「海の底沖つ白浪」というのは、沖の海の底という意味です。実は、「海の底」が「沖」を導き出す枕詞なのです。つまり、入れ子型になっていて、序詞の中に枕詞が入っているのです。やや過剰な装飾のように見えますが、実はこういった表現はよくあります。
これらは全て、序詞を用いた歌ですが、問題は和歌、特に短歌では、31文字しかないところにあります。たったそれだけの文字しか用いないのに、ある言葉を導き出すためだけに使う言葉に多くの文字を用いています。なぜ、そのように無駄なことをするのでしょうか。ここに尽きるといっても良いと思います。教室で教えていても、この点が学生たちにとっても最も理解し難く、なぜなのだろうと思う点です。
「こういう言葉があるのだけど、どう思う?」と尋ねた際に、いろいろな回答があります。分からないという回答が多いのですが、ある時ある学生が「なにか懐かしい感じがする」と答えました。その時はピンと来なかったのですが、後から考えて「これはなかなか本質を突いているんではないだろうか」と思いました。序詞というのは、なにか懐かしい感覚を導き出す、喚起する言葉なのかもしれないと思い始めました。
その懐かしさというのは一体何なのか、考えてみましょう。
●繰り返し、比喩、掛詞という序詞の3類型
先ほど序詞の例として、3首の歌を挙げました。序詞を大きく分類すると3類型に分けられるのですが、実はこの3首はその3類型に対応しています。
1番目の和歌では、「時鳥鳴くや五月のあやめ草」が「あやめ」を導き出しました。ここでは、「あやめ草」と「あやめ」に着目しましょう。「あやめ草」は植物です。これは、花のアヤメではなく、しょうぶ湯に漬けるショウブです。サトイモ科で、花のきれいなアヤメではありません。お間違えのないようご注意ください。対して後者の方は、物事のあやめ、つまり条理を指します。全然違う言葉ですが、音は同じです。同じ音であることに基づいて、物事の条理という意味の「あやめ」を導き出すという役割を、この序詞は果たしています。つまり、類音の繰り返しに基づく序詞という類型です。
一方、2番目の和歌では、「夏の野の茂みに咲ける姫百合」が「知らえぬ」を導き出しました。茂みの中で咲いている美しいユリの花は、茂みの中にあるので、周りの人には見えません。それと同じように、誰に対しても秘密にしている私の恋(秘めた恋)を示しています。つまり、これは比喩を表す序詞です。
それから3番目の和歌では、「海の底沖つ白浪」が「たつ」に掛かり、その「たつ」が「たつた山」の掛詞になっています。つまり、掛詞に基づくという類型です。この3類型が序詞にはあるわけです。
今、...