●天才歌人・藤原良経による一人寝の寂しさを詠んだ歌
次に、後京極摂政太政大臣、すなわち藤原良経の歌を見てみましょう。
「きりぎりす
鳴くや霜夜の さむしろに
衣片敷き ひとりかも寝ん」
「きりぎりす」、これは今のこおろぎのことだといわれています。「こおろぎが鳴いている霜夜」。「鳴くや」の「や」は先ほども出てきた「松島や」の「や」と同じで間投助詞です。意味はありません。語調を整えているだけです。こおろぎが鳴いている霜の降る夜ということで、寒い夜ですね。「さむしろ」は「狭いむしろ」と書きます。「さ」は「狭」です。要するに、みすぼらしいむしろということですが、そこに衣を片敷いて、つまり自分の衣だけ敷いてということで、一人寝の様子を表しています。「一人で寝るのだろうか」ということです。「かも」というのは疑問を表しているので、「一人で寝なければいけないのかなあ。さみしいなあ。一緒に寝床に入れたらなあ」という一人寝の寂しさを歌ったものです。
これが『新古今集』時代、おそらく素人としては最も才能があったといわれている、天才歌人とも呼びたい藤原良経という歌人の歌です。
●宇治の橋姫という神話的イメージを持つ本歌
この歌もやはり本歌を踏まえています。
「さむしろに
衣片敷き 今宵もや
我を待つらむ 宇治の橋姫」
これは『古今集』の歌ですね。「さむしろに衣片敷き」、これが良経の歌にそっくりそのまま取られています。「みすぼらしいむしろに自分の衣だけをひいて、今宵も私を待っているだろうか、宇治の橋姫は」という歌です。宇治は大河である宇治川が流れていて、そこに宇治橋というものがある。大変重要な交通の要衝でもあったわけです。その宇治橋には橋姫がいるんですね。これは伝説的、神話的な存在ですので、実際に具体的な人間のことを比喩として「宇治の橋姫」と多分言ったのだろうと思います。
ただ、この歌は読人しらずで非常に伝承的な、神話的な歌になっています。どういう状況で詠まれたのかはよく分かりません。でもあたかも宇治の橋姫という神話的な存在が、一人寝をしながら男神を待っている。そのようなイメージもあります。
●冬の寂しさと恋の孤独感の重ね合わせという妙味
この本歌は恋の歌なわけです。良経の方は、冬の歌です。冬の寂しさを歌っています。霜が降るような冬に一人寝をする。一人寝をするというのですから、これ自体も恋の歌のように捉えられる。確かに、半分恋の歌なのです。だけれども、これは『新古今集』の時代、藤原定家の時代によく用いられた読み方で、季節の歌なのだけれども、しかし恋の趣が非常に色濃く貼りついている。その恋の趣があることによって、季節感がより深まる。そういう仕掛けになっています。
つまり、一番表現したいのは冬の寒さ、寂しさ、孤独感、冷え寂びたような思い。これを強調するには、最もそれらしく表すにはどうしたらいいかというと、やはり恋の孤独感、恋がかなえられない寂しい思いというのと重ねる方が、冬らしさというのは響いてきますね。そのような読み方なのです。ですから、恋と冬とをブレンドしたところにこの歌の妙味があるということを、味わっていただけたらと思います。
●藤原良経の境遇から推しはかる二重三重のトリック
実は、これは大事なことなのですが、藤原良経がこの歌を詠んだその直前に奥さんを亡くしているのです。このことは長い間、発見されなかったのですが、久保田淳氏(国文学者、東京大学文学部名誉教授)がそのことを発見して、どうもこの歌は詠んだのは普通のたくさん歌を詠む場で詠んだので、「自分の奥さんが死んだ悲しみの中で詠んだ」などという説明は全然ないのです。普通に、いわばお役目上、詠んだような歌なのですが、そこにひそかに自分の思いを入れたのではないか、という想像があるのです。私もそうだと思います。
公的な場の中にさり気なく私的な思いを入れる、というのは何か暗号を潜ませているようで、分かる人には分かる。だけれども分からない人は別に公的な部分だけで、どうぞ味わってください。でも、本当に分かる人にはこの思いを知ってもらいたいですね。このように何か二重三重にトリックを仕掛けたようなそんな歌になっているのだと思います。
そこもまた本歌取りの1つの面白さで、必ずしも本歌取りだからそうなるというわけではないのですが、本歌取り自体も歌を重ねていくわけですから同じような技巧と言うことができるのではないかと思います。ひそかに重ね合わせていくという技巧です。
●漢詩を下敷きに「衣うつ」を味わう
もう1つ見てみたいと思います。参議雅経、すなわち藤原雅経のことです。飛鳥井家という家柄を打ち立てていくので、飛鳥井雅経と呼ばれたりもします。
「み吉野...