●歌と物語と日本人
今日は、皆さんと一緒に『万葉集』の聖徳太子の歌、『日本書紀』の聖徳太子の歌を取り上げてお話をしたいと思います。
「えっ、聖徳太子は歌をうたったのか」とか「聖徳太子の歌は『万葉集』にあるのか」と驚かれる人もいるでしょう。
歌というものは情感であり、心の働きは情です。それに対して、語りというものは論理を伝えます。「こうなって、こうなって、こうなった」。その間にどう思ったかということは、実は歌が担うものなのです。
そのように理解すると、日本人は人の心を動かす情というものを歌で表現していったと考えられる。そうすると、聖徳太子の場合も、その思いを歌で表現することがあっただろうと理解してよろしいかと思います。
●龍田山の死人を見てつくられた太子の歌
『万葉集』では聖徳太子の歌が巻の三に収載されています。『万葉集』を学習していらっしゃる方は、国歌大観番号の415番といえばお分かりでしょう。資料としてお示ししますので、特に『万葉集』を持っておられなくても結構です。読んでみたいと思います。
「上宮聖徳皇子、竹原井(たかはらのゐ)に出遊(い)でましし時に、龍田山の死人を見悲傷して作らす歌一首<小墾田宮に天の下治めたまひし天皇の代。小墾田宮に天の下治めたまひしは豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめの)天皇なり。諱(いみな)は額田、諡(おくりな)は推古>」
「家ならば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥(こ)やせる この旅人あはれ」
このような歌です。最初に「題詞」として説明が付いています。その説明を読んでいくと「上宮聖徳皇子」という言い方をしています。現在、私たちには「聖徳太子」が一般的ですが、こう呼んでも差し支えはありません。「上宮というところの宮に住んでいる、聖の徳を持った天皇の子」ということで「上宮聖徳皇子」。これも後から奉られた名前ですけれども、そのように呼ばれることもおそらくあったのでしょう。
「上宮聖徳皇子、竹原井」。現在の大阪府柏原市の高井田というところに「竹原井の跡」という場所があります。その竹原井に「出遊でましし時に」詠まれた。「出遊でます」は「いる、行く」の尊敬語ですから、「いらっしゃったときに」です。ここから少し大和のほうへ歩いていくと「龍田山」という山があります。その龍田山の死人を見て、悲しんでお作りになった歌ということになります。亡くなった人を見て、悲しんでその歌を作られたわけです。
●『万葉集』の頃は伝説上の人物だった聖徳太子
これにはさらに注記が付いています。聖徳太子は、この『万葉集』が出来上がった8世紀の半ばでは伝説上の人物ですので、いつの時代の人かよく分かりませんでした。
そこで、『万葉集』の編纂者が「この皇子は小墾田宮で天下をお治めになった天皇の時代の人」という注記を付けてくれています。小墾田宮で天下をお治めになったのは、和風(日本語)のお名前でいえば「豊御食炊屋姫」です。これは推古天皇のことなのですが、お名前から察して神様や仏様にお供えする食事を作る仕事を担っておられたと思われます。
「豊」は豊か、「御食(みけ)」は神様に供える食事を言います。「炊屋(かしきや)」というのは、それを作る建物です。ですから、「豊御食炊屋姫」と呼ばれていた以上、そのようなお仕事に就かれていたこともあったのだろうと思われる。「豊御食炊屋姫天皇」と呼ばれた天皇時代の方ということになります。
この後に「諱は額田」といいます。「額田」という諱を持っていらっしゃいました。「諡は推古」ですから、死後は推古天皇と呼ばれた。われわれは推古天皇と呼ばれればパッと分かりますが、これほどちゃんと説明してくれているわけです。「小墾田」は飛鳥にあった一地名で、「小墾田宮」というのは推古天皇が営んだ宮。そこで天下の政治をお執りになった天皇である。その時代の人ですよ、と言っているわけです。
つまり、『万葉集』ができた時代に、推古天皇や聖徳太子はずいぶん昔の人だという印象があったようです。8世紀の人々、例えば750年代の人たちが600年代前半の話をするわけですから、150年ほどの開きがあります。われわれにしても150年前の話をするときには、ずいぶん考えなければいけなくなります。それと同じで、伝説上の人であったということが、ここでよく分かります。
●旅先で倒れた旅人への哀れみ
その上宮聖徳皇子はどのような歌を残したかというと、「家ならば 妹が手まかむ」と歌い始めます。「家にいたならばねえ」というわけです。「妹」というのは恋人や妻のことを男性が呼ぶ言い方ですから、恋人の手を「まく」というのは「枕にする」、つまり「腕枕をする」ということです。
歌の表現の中では、この「女性の腕枕で男性が寝る」とい...