●「聖徳太子のように生きよう」という志
どんな会議でも多数決で決め、リーダーは投票によって選ぶ。それが近代民主主義の鉄則です。私は、これは否定しません。しかし、選ばれた人がどのような政治思想を持って政治を行うのかというのも大切なことであり、そこにはその政治家のバックボーンがあるわけです。
キリスト教社会であればキリスト教というものがある。イスラム教社会にはイスラム教というものがある。日本の場合は、儒教もあれば仏教もあるし、『日本書紀』から学んでもいいでしょう。『古事記』から学んでもいいでしょう。でも、古代社会の場合は、おそらくそれが聖徳太子なのです。
おそらく孝謙天皇は、道半ばで倒れた人を思った。しかも、それは国のために働いた人ではないか。そういう人たちに食事が与えられず、倒れてしまって野垂れ死に(客死)してしまうというのは国としてもっとも憂うるべきことだ、というのがそこに表れている。私はこれを、(聖徳太子のように生きようという生き方の)、極めていい例だと思っているわけです。
●旅で語られる聖徳太子の話の役割
そろそろまとめに入りたいのですが、今日の聖徳太子の話はおそらく旅の中で語られます。
「ここは高井田というところで、ちょっと行ったら龍田山だろ。ここ、死んでいる人がいて、聖徳太子が通りかかったらな、歌を詠んだんだよ」
「どういう歌?」
「家にあるならば妻の手を手枕にして寝ているだろうに。ああ、仕事とはいえ、旅先で、こんなところで臥せっている旅人は哀れだな」
「ああ、それはやっぱり慈悲深い心の表れだよな」
というふうに語っていく。それで、聖徳太子のことがよみがえるわけです。聖徳太子のことがよみがえるだけではなく、そういうことを通じて、私たちが小さき人、弱き人に対してどのように接しなければいけないかということをトレーニングしていく機会にもなっていくわけです。
「いいことをしなければいけない」「善行を積まなければいけない」と声高に上から言われるよりも、「昔、聖徳太子という人はね」という話のほうに、私は従います。
さらにいうと、古典を勉強する人というのは、だいたい時代から取り残された人が多いのでしょう(笑)。私もその典型なのだけれども、だいたい世の中の反対側を向いて歩こうとしている人は、古典を勉強している人が多いのではな...