●歴史的に積み重なっている日本人のレジリエンス
―― 確かに今でも、例えば台風が来て、農作物に大変な被害が起きたり、地震や火山の噴火が起きたりすると、日本人の場合は「天災が起きたら仕方がない」ということで、そこから復興に歩み続けるというところがありますね。
鎌田 ある種、日本人の中にレジリエンスがある。あるときは悲嘆に暮れるのだけど、悲嘆に暮れきらないで、そこから復興再建に向かって歩みを続ける立ち直り力がある。それはやはり、何度も何度も自然の中で繰り返し体験してきて、ある種の免疫といいますか、忍耐力といいますか、そういったものが歴史的に積み重なっているということが大きいでしょうね。
―― 自然の大災害も仕方がない。それをどう乗り越えるかが、逆にわれわれの腕の見せどころ、生き方の試されるところだという覚悟ができているのでしょうか。
鎌田 感染症においても、私は基本的には同じだと思います。感染症に関して、『古事記』や『日本書紀』の中にはっきりと書かれているのは、崇神天皇(第10代天皇)の時代にあった流行病のことです。
この時、たくさんの百姓(オオミタカラ)が死に、国が立ちゆかないほどに感染症がはやったのです。これは天然痘(疱瘡)なのか分かりませんが、とにかくたくさんの死がもたらされたので、天皇がこれを祈り、占いました。そうすると、オオモノヌシの祟りであることが突き止められたのです。そこで、オオモノヌシを祀るという祭を行いました。その祭をきちんと行うことができたら、オオモノヌシが鎮まって平和になり、感染症も治まりました。
オオモノヌシというのは三輪山の神で、蛇の姿になって現れたりします。自然などに働きかけるような大地的な神です。感染症も含めて疫病は、大地の働きの中で何かが起こってくると捉えたのでしょう。そして、その神を祀って鎮めた場合に、それを善きものにしていくことができた。人々が幸せになった。そのため、災い転じて福となすという方向へ、崇神天皇が神々の祭祀を通して行っていったのです。
そのときに合わせて、伊勢神宮の根本であるアマテラス祭祀を始めていきます。それまでは天皇とともに同殿共床、つまり同じパレスの中に祀っていました。それを三輪山の麓に離し、距離をおいて祀るようになったのです。最初は、三輪山の麓にあったアマテラスが、三輪の神のそばだからおそらく遠慮したというか、ここでは収まりきらないということになりました。先ほどの火山の神と火山を鎮める神の話ではありませんが、近畿で大和を中央とするならば、三輪山の真東に当たるのが伊勢です。各地を転々としながらその伊勢の地にアマテラスを祀る神宮ができたのです。
朝日は伊勢のほうから昇り、三輪山を通過して、そして淡路島のほうへ抜けていく、というのが春分、秋分の太陽の道のラインです。そういった太陽の道のラインにかなっています。だからアマテラス祭祀とオオモノヌシ祭祀、つまり伊勢祭祀と三輪山祭祀は相互に緊張関係の中で両立し、補完し合っています。
そのオオモノヌシ祭祀が、実は象徴的には出雲とつながっているので、国つ神の代表者としてオオモノヌシは出雲のオオクニヌシと同魂同体のように考えられています。名前は違うけれども、同じ魂の範疇とも捉えられていますね。だから、三輪は出雲の象徴物、象徴体でもある。こういった神話的なつながりがあるということですね。
―― 日本の場合は、アマテラスであっても独立しているのではなく、いろいろな神様との関係の中で場所も決められていると。
鎌田 そうですね。また伊勢神宮の成り立ちを考えると、また複雑な面白さがあります。内宮と外宮が生まれてきたり、さらに月読宮などいろいろな宮が125社近くも密集してきたりする。これは神々の“三密状態”ですね。伊勢という土地だけにそれだけの神々を集めている。われわれは「伊勢神宮」といってひとまとめで考えますが、実際には何百柱もの神々、あるいは社殿、座主が一つ一つ丁寧につくられ、祀られています。そして、それらが20年に1回、式年遷宮をするといったことが1300年以上保ち伝えられている。これは驚くべき文化構造ですよね。
●世界で稀なる日本の王権システム
鎌田 『日本書紀』で、三種の神器をニニギノミコトに託し、天壌無窮の神勅が下されたこと、あるいは「斎庭の稲穂の神勅」といって、「この稲穂をもって米作りに励めよ」ということが語られています。
このような『日本書紀』の中に語られていることが、現に天皇の振るまいとして行われているのです。令和元(2019)年5月1日の午前に、剣璽等承継の儀が行われました。その際、最初に侍従が捧げ持ってきたのが草薙剣(くさなぎのつるぎ)で、次に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)です。八咫鏡(やたのかがみ)は賢所(...