●神話は「踊り」である
―― これまで(シリーズ講義<世界神話の中での古事記・日本書紀>では)『古事記』と『日本書紀』、それから『古語拾遺』の違いについて、ご解説いただきました。今回からは、世界神話の中で日本神話がどのような位置づけなのかについて、お話を聞きたいと思います。
神話といえば、「世界の成り立ち(どうやってこの世界ができたのか)」を説明するものでもあります。それが神話ごとにどう違うのかについて、ぜひ教えていただければと思います。
鎌田 「世界の成り立ち」について話す前に、私は最近、ジョーゼフ・キャンベルという神話学者の『神話の力』(早川書房)を読み返していました。これは対談集で、ビル・モイヤーズとジョーゼフ・キャンベルが対話しながら、英雄神話など世界中の神話が持つさまざまな面白さやキャラクター、構造などについて述べています。その冒頭で、インタビュアーのビル・モイヤーズが、この本とジョーゼフ・キャンベルについて紹介しつつ、次のように述べています。その『神話の力』の一節を紹介するところから始めましょう。
ある国際的な宗教会議のために日本を訪れたキャンベルは、別のアメリカ代表であるニューヨーク州出身の社会哲学者が神道の司祭にこう言っているのを立ち聞きした。「私たちはたくさんの儀式に参加したし、あなたがたの神殿もずいぶんみせていただいたが、そのイデオロギーがどうもわからない。あなた方がどういう神学を持っておられるのか、理解できないのです」。
すると相手の日本人は、考えにふけるかのように長い間を置き、ゆっくりと首を振ってからようやく言った、「イデオロギーなどないと思います。私どもに神学はありません」。では何があるのかというと、その方は「私たちは踊るのです」と言ったというのです。
―― 「踊るのです」というのは面白い表現ですね。
鎌田 「踊る」は英語で言えば「dance」になるのでしょうが、ここでは例えば神楽や巫女舞といったものでしょう。
神社で行われる重要なことは、大きく3つあります。神様にお供え物をする、神様に祝詞を奏上する、そして神様を喜ばせるための感謝や報恩、祈りなどのこもった神楽や舞を奏するといったことです。それらを総合して「私たちは踊るのです」と言ったのだと思います。つまり、私たちが行うことは1つの儀式であり、歌であり、踊りのようなものだということです。神主さんの振る舞いを見ていると、やはり舞に近いものがあるでしょう。
―― 様式化された美しさがありますね。
鎌田 非常に様式化されていますよね。その立ち居振る舞い全てが、ある秩序に基づいて、礼儀作法にかなった踊りのようになっている。型を体現しています。
そのモイヤーズ氏がいうには、世界中の神話の面白さを魅力的に析出したジョーゼフ・キャンベルも「彼は天球の音楽に合わせて踊りを踊っていたのだ」と。つまり、彼の神話解釈(神話への理解)は、神社の宮司さんが神道について言ったように、「彼の踊りなのだ」として、大変興味深く思ったということです。そこで述べられているように、神話というものは知的理解を超えるものなのです。
―― 確かにそうですね。論理や理屈ではどうにもならない世界ですね。
鎌田 論理的に考えても矛盾で、「なぜこのような辻褄の合わない奇想天外なお話になるのか」といった具合です。そのため、それを一種の宇宙の踊り、神々の踊り(ダンスをしている)だと見ていく。すると、ダンスの中に何らかの「ナラティブ(物語)」があるのです。その物語を感じることができたら、私たちは神話の世界に入っていくことができると思うのです。
●神話は自由自在に物語を語ることができる
鎌田 その世界観ですが、例えばインド神話では、世界を創造するものを「ブラフマン」と言いました。そのブラフマンが世界を創造した後、世界を運営するもの、動かすものを「ヴィシュヌ」と言った。ヴィシュヌという神様は、さまざまな姿形に変身します。「アヴァターラ」というのが、その化身です。日本語では「権化」「権現」などと言いますね。川上さんは、「アバター」という言葉をどのような意味で使いますか。
―― 先ほど「化身」とありましたが、自分ではないものに託す、化けると。
鎌田 調べてはいませんが、おそらくアバターというキャラクターについて述べる言語と、アヴァターラというサンスクリットの元の言葉は、語源は共通しているのではないかと思います。つまり、さまざまな形に化けるようにして、権現していく。ヴィシュヌという神様は、そのような権現神である。つまり化身していくのです。その9番目の化身の姿がブッダ(お釈迦様)であるというのが、インドのヒンドゥー教ヴィシュヌ派の考え方です。...