●「無任所大臣がいたから政治がうまくいった」という例はない
―― ここは現代の日本人として理解しておくべきだと思うのですが、近衛文麿が行った新体制運動とは何か。
そもそも政党内閣が強かったけれども、信を失った、あるいは失敗だった。ちょうど大恐慌の時期とも重なり、これではいけないから新しいものが必要だとなりました。ですが、近衛のもともとの思惑としては、各省庁がバラバラで国としての戦略が打ち出せないので、大政翼賛会的なものをつくりさえすれば、軍部の横暴といったものも治められ、それによって国としての方向性を出せるだろうという理想があったのですね。
片山 そうですね。日中戦争を解決し、第2次世界大戦に入っていく世界の状況に備えるためには、政府と軍が別々であったり、政府の中で大幅に意見が違っていたり、枢密院まであったり、衆議院や貴族院が勝手なことを言っていたりするのではいけないわけです。これは明治国家体制のデザインの失敗なので、だから新体制運動は必要だという。これは、左翼や右翼を超えて、当時真面目に政治を考えている人はみなそう思っていたのです。
―― 国がバラバラだとどうにもならないということで、その発想が生まれた。その中で無任所大臣が、いわゆる国務大臣と扱われるようになります。そして新体制運動、大政翼賛会の運動も中途半端な形になっていくのですが、そこで無任所大臣が本当に機能したのかどうか。理論としては理解できますが、現実問題としては機能したのでしょうか。
片山 現実問題としては、近衛内閣でも、東條内閣でも、小磯内閣でも、鈴木内閣でも、終戦処理を行った東久邇宮内閣でも、さらにいうと、その後、無任所大臣を最大限閣僚に入れて活用しようとした吉田茂長期政権でも、無任所大臣がいたからうまくいったという例はありません。
これは政治史の理解の仕方の問題で、「無任所大臣がこういう局面でこれほど活躍したからこそ、やはり無任所大臣は偉かった」という研究をなさる方もいるでしょう。ですが私の知る限りでは、積極的にそういえることはなかった。空振りに終わったと思います。
東條内閣の時代に移ると、東條内閣は無任所大臣の活用を近衛内閣から引き継いで考えており、その流れは鈴木貫太郎内閣まで受け継がれます。しかし東條内閣の下で、「無任所大臣を活用するのは無理だろう。別のことを考えるべきだ」という新しい政治構想の流れが官僚層からの意見として多く出てきます。そういった方向での政治の刷新運動も、多少出てきたのです。
●近衛内閣以来、無任所大臣を増やすという大きな過ちを犯している
片山 この話を少しさせていただくと、例えば山崎丹照(やまざき たんしょう)という役人がいました。東條内閣時代、法制局と企画院の両方、いわゆる官僚の中枢で国家デザイン(現在でいう「国家デザイン戦略」といったもの)を担当していました。山崎丹照は、内部でも多くの国家プランを出し、昭和17(1942)年に著書も出して世間にも広くアピールしました。
その彼は、無任所大臣は失敗であるとはっきり言っています。内閣総理大臣が制度上、強くなっていないのに、人脈などに期待して大臣の数を増やすことは、かえって閣議がまとまらないという単純な結果をもたらすにすぎない。近衛内閣以来、期待や幻想を抱いて無任所大臣を増やすという大きな過ちを犯している、と。
そして逆に、大臣は減らすべきだと言います。減らさないと合意ができないではないか、と。世の中全てそうですが、十数人と、7、8人とでは、7、8人のほうが全員の意見を言うことができ、合意の到達まであり得る。十数人いると、さまざまな人がいて、みなが意見を言っていては、毎日閣議をやっていても小田原評定でまとまるはずがない。まとまらない方向にわざと誘導している。だから大臣は減らす。無任所大臣はやめる。大臣は兼職にして、人数を努めて減らす。
これは東條内閣が行っていることに似ているところがあります。東條内閣は、無任所大臣もいるのですが、大臣の兼職もかなり行いました。他に選択肢がなかったということもありますが、大臣の兼職を励行するところがあったのです。
そして代わりに、大政翼賛会の夢も破れた1941年、42年の段階では、総理大臣が行政を強く仕切っていくためにはどうしたらいいかというと、現在でいう「官邸主導」です。総理大臣が法的には調整役にしかならない明治憲法体制を改憲によって打ち破ることは難しいけれども、憲法を変えず実力によって内閣の仕組みをいじることで、内閣総理大臣に自ずと権力が集まるようにする。それは無任所大臣を増やすことではなく、大臣を減らすことであり、なおかつ、現在でいう内閣官房と内閣府を強化していくという発想です。
これは、おそらくイギリスやアメリカ、...