●東條内閣では「兼職」が進められた
片山 それから「兼職」です。実際に東條内閣がさかんに兼職を行い始めました。
例えば内閣と軍について、行政と軍令は別々のものです。ですが憲法上、陸軍参謀総長と陸軍大臣と総理大臣を兼ねてはいけないとは、どこにも書いていない。ということは、大政翼賛会のような強力な政治組織をつくることは日本の政治風土的に無理だ、つまりナチスのような政治組織は無理だということで否定されてしまったら、あとは人間が兼職するしかありません。陸軍の参謀本部も陸軍省のトップも総理大臣も同じ人にすればいいではないか、ということです。
ここで東條英機や嶋田繁太郎といった人たちの人事が出てくるわけです。つまり、軍令と軍政、さらに軍政だけではなく内閣の中で軍以外の行政に絡むことも、1人の人間が兼ねていく。日本の弱い政治制度を超えていくことについて、さまざまな官僚が面白いアイデアを出しました。けれども、実際に乗り越えるために速攻でできることとして東條英機が行ったことは兼職ですね。
この兼職は一応、理屈としてはうまくいきそうですが、現実としてはうまくいかないに決まっています。なぜなら、仕事が割れているのは、1人の人間ではこなせないからです。これが近代国家の複雑性の問題なのです。
―― 忙し過ぎますよね。
片山 そうです。頭がパンクしてしまいます。それらを1人で全て行うのは、いくら「カミソリ東條」でもできません。
しかも、東條英機に反対する勢力からすると、「大政翼賛会で打倒した天皇陛下に畏れ多いことを、東條英機は兼職でやろうとしているではないか。近衛以上に東條はけしからん」ということになって、反東條運動が起きてしまうわけです。その反東條運動を抑えようとして、憲兵隊を使う。憲兵政治でさまざまに脅迫をしてみたり、中野正剛といったうるさい者に圧力をかけてみたりする。こういうことを行って、ますます東條ファッショ、日本のヒトラーなどと言われてしまう。
「日本は、ナチスのように全て1人で行うのとは違う。みなで分担しながら、それぞれの職権で、輔弼して、調和して、横の調整などでエネルギーを使わずに懸命に自分の職権で突き進んで、最後に良い答えが出ることを信じる。それが日本だ」。これが、大政翼賛会に反対した人や、東條ファッショに反対した人の理屈です。分権こそが正しい、強力政治は日本の国柄を考えたら間違いだ、というのです。
この「強力政治は間違いだ」という勢力と、「強力政治をしないと滅びる」という勢力との戦いが、近衛時代、東條時代なのです。小磯時代、鈴木時代になると、戦っている余裕もないほど切羽詰まってしまい、どうしたらいいのか分からないまま、最後は御聖断に頼っていく。ある種、悲惨な末路ともいえます。
御聖断というのは輔弼放棄です。「輔弼できません」と言って投げてしまったから、そこで初めて昭和天皇が親政して(自ら決めて)しまった。決めたのは、戦争をやめること、ポツダム宣言を受諾して負けることだった。勝つためには強力政治が必要で、トップのリーダーが決めることが大事だということを究極で実現したのは昭和天皇だったのだけれど、それは負ける決断をするときだった。これは日本の歴史のアイロニーですね。
●戦時中でも繰り返された平時の人事異動
―― 東條英機内閣時代に兼職が進んだということですが、もう1つ、東條内閣で行っているのは省庁再編です。戦時中にもかかわらず、なぜ省庁再編をするのだろうと不思議に思います。例えば、それまでの商工省を、機能を分けて、軍の需要を支える軍需省にしてみたり、あるいは当時の占領地や信託統治領を治めるために大東亜省をつくってみたりする。大東亜省は結局、外務省とどちらがどの役割なのかといった話になっていきます。組織を変えると、確かに何かを行った気になるという効果はあるでしょうが、実際に効果があったのかどうか。
よく挙げられる例ですが、天下分け目といわれるミッドウェ-海戦の前に、日本海軍が人事異動をしました。真珠湾攻撃以来、しばらく人事異動ができておらず、気の毒だから人事異動しようということで行った。それで結局、なかなか職務分掌できない、つまり自分の担当に慣れないうちにあの大作戦を決行してしまい、敗戦につながったのではないかなどとも指摘されます。あの局面での省庁再編は、どうだったのでしょう。
片山 そうですね。これはいろいろな要素があると思います。今、海軍の指摘がありましたが、陸軍も海軍も、戦争中でも平時と同じペースで人事異動をやろうとするのです。作戦を指導する前線の軍司令官や参謀がこれから準備してきた作戦を実行しようというときに、それについて知らない人間に平気で替えてしまう。非常時と平時の区別ができていない。...