●無任所大臣は戦後、日本国憲法になっても生きていた
―― 客観的に数十年前の話として見ると、なぜ非常時に省庁再編などということをやったのか、実際に機能するのか、と思うわけです。翻って現代で考えた場合、日本の組織では政府に限らず、企業などにも当てはまると思います。
例えば企業の場合であれば事業部制が敷かれていることも多く、よくある例を挙げると、どこかの事業部の調子が悪いので統廃合すべきではないかと言っても、その部にしがみつく人がいる。あるいは各事業部長が取締役であり実質事業部を代表していて、その人がいるために取締役会がまとまらず、そのため取締役会を増やす。あるいは、調子が悪くなったから新しく企画部門を強化しよう、など日本企業も決して笑えないことを行っている。厳しいからこそ変えようと思って、一生懸命にさまざまなことをやって、結果としては東條内閣以降の失敗の轍を踏んでいるといったこともあると思います。
片山 そうですね。
―― 無任所大臣の設置や省庁再編は、確かに頭で考えれば機能するだろうと思うわけです。例えば無任所大臣であれば、自分の省庁を持っていないので、できることが限られます。自分の手足(と言っては悪いですが)となって動いてくれる人たちがいないわけです。では、何ができるかというと、限界がある。
省庁再編も、働いている立場になると分かりますが、急に隣の省庁だった人と席を並べることになって「よろしくお願いします」と言っても、やり方は全く違うし、それまでの慣習も違う。しかも、どこにどのような決定権があるのかも分からない。そのような中では、「私たちは何を決めるのでしょうか」となるでしょう。また、例えば他の省庁が「やはりこれは俺たちの仕事だ」と言ってくることもあるでしょう。よって運用上、どこまでが誰の仕事配分なのか分からなくなるだろうということは、目に見えています。
これを実際に機能させるためにはどうするべきだと思いますか。非常に難しい問題ですが。
片山 そのときそのときの政治改革を行おうとした人たちが、どこまで歴史的なことを考えていたかは疑問ですが、1945年までうまくいかなかった、あるいは構想はあったけれども実現しなかった。これらを戦後ハイブリッドさせて、なんとかならないかということで行ったのが、平成の政治改革だったと思います。
無任所大臣は戦後、日本国憲法になっても生きていた。無任所大臣がいて、そこに有力な大政治家がいれば、複数の官庁に言うことを聞かせられるという考えは、戦後の保守党政治の中に生きていた。つまり、特命の大臣という現在の制度に受け継がれていくわけです。
●参謀本部と無任所大臣のアイデアを結合した特命担当大臣
片山 ただ、ここでどのようなねじれと連続性があったか、あるいは総合があったか。まず、それぞれの官庁の数が多すぎる、大臣も多すぎると、それぞれの縄張りが際立って、延命していく率が高くなる。だから橋本龍太郎などが進めたように、官庁、省庁を再編するということで数を減らす。別々にあった役所を統合してしまう。そうして1つの官庁にして、大臣は1人にする。そうすると、官庁の数も減るし、大臣の数も減る。
統合した分、閣僚の全体数を減らすのではなくて、無任所大臣的なものを生かす。これは近衛内閣における無任所大臣の思想です。政治学者でいえば当時、早稲田大学の中野登美雄などが強く主張した「無任所大臣がいると内閣がうまく回る」という話です。
それから、無任所大臣が多いと大臣が増えてかえって混乱するので、国務大臣の上位というわけではないけれども、参謀本部的なものをつくる。戦前の政治制度の中でも企画院や法制局などがあり、これらは外局的なもので、戦後の総理府や現在の内閣府に相当するものです。このような総理直属のセクションで、下位の大臣が担当する官庁とは別のものを、総理大臣の脇につくる。
今の日本でもそういう体裁になっています。例えば今の内閣府は、政治改革の結果、総理府の後継としてつくられたものです。これは、単に総理大臣の外局として、下位の官庁にはまらないものを集めているというのではなく、総理の政策を遂行するために官房や官邸を助ける機関として、省庁の上位にあるわけではないけれども事実上、解釈としては上位にあるものとして組んである。これはまさに、先ほど(5話目)山崎丹照の話でした、東條内閣時代に企画院などの構想にあった参謀本部なのです。
無任所大臣を閣僚として省庁の大臣と横並びにおいておく、彼らが潤滑油になる、というのが近衛内閣の発想です。そのような大臣は必要ないというのが、東條内閣時代の企画院や法制局にあったアイデアです。これらを統合して、無任所大臣的な大臣を参謀本部=内閣府に置く。総理のやりたいこと...