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明治維新から学ぶもの~改革への道
日本外交の草分けとして新政府をリードした陸奥宗光
明治維新から学ぶもの~改革への道(8)陸奥宗光という人物
歴史と社会
島田晴雄(慶應義塾大学名誉教授/テンミニッツ・アカデミー副座長)
不平等条約解消の雄として名高い陸奥宗光は、若い頃は尊皇の志士として活動、海援隊にも参加した。外交の目が人並みすぐれた陸奥は、維新後の新政府でも頭角を表す。やがて薩長土肥中心の政府人事への不満、「廃藩置県」建白への無理解から下野し、紀州藩強化策に専念することとなる。(2018年11月13日開催島田塾講演「明治維新とは:新たな史観のこころみ」<後編>より、全22話中第8話)
時間:9分57秒
収録日:2018年11月13日
追加日:2019年4月27日
収録日:2018年11月13日
追加日:2019年4月27日
カテゴリー:
≪全文≫
●不平等条約解消、三国干渉受諾の偉業を成し遂げた英明
陸奥宗光がどういう人であるかは、歴史の授業にも出てきます。ここまでに、参議など大臣クラスの官職名が出てきましたが、きちんとした定めはありませんでした。初めての憲政内閣になるのが伊藤博文内閣であり、そこで外務大臣を務めたのが陸奥です。
幕末より日本は不平等条約に悩んできましたが、一連の不平等条約改正に当たったのが陸奥宗光の大いなる偉業でした。その後、日清戦争が始まると軍略に詳しいことからやはり外交の任に当たりますが、終結時には三国干渉を受けることになります。
三国干渉は、ロシア・フランス・ドイツからの圧力で、日本が中国から取り上げたものを返還するようにという勧告でした。伊藤博文は困り果てます。天皇陛下は当時、前線の広島で執務をされていて、閣議も広島で行われていました。陸奥はこの頃、肺結核を患って療養中でしたが、その病床で閣議が開かれました。高熱の陸奥でしたが、どうしたらいいか問われると、言下に「三国を受け入れるように」と答えました。
この干渉に対して伊藤には、戦争に勝っている以上、不当ではないかという考えがありました。列国会議を開き、公平な審判をすべきだという考えだったのですが、陸奥は、「そんなことをすると大騒ぎになり、決着がつかなくなる。外交巧者の中国が何をしてくるか分からない。この機に乗じ、三国に応じて速やかに賠償し、遼東半島を返せば、それで片付く」と言う。実際、それ以降は沙汰止みになり、日本は大混乱に巻き込まれずに済みました。陸奥はこの後ほどなく亡くなりますが、彼のような人物が明治初年にいたのです。
●日本外交の草分けとして新政府をリード
若い頃の陸奥は、当時の風潮として誰もがしたように尊皇攘夷を説き、人物という人物の門を訪ね、勉強に励みました。勝海舟が陸奥に着目して海軍操練所に入れますが、海軍操練所は素性の正しからぬ脱藩者がいるということでお取りつぶしとなります。その後は坂本龍馬の海援隊に入り、倒幕運動の行動家になっていきます。
自伝によると、陸奥は鳥羽伏見の戦いがまだ決着を見る前に「独り天下の形勢を察するところがあり」、幕府軍の後をついて大坂に赴き、後の駐日公使アーネスト・サトウを通じて、パークス(幕末~明治初期の英国公使)に面会を申し入れます。今後の新政府の外交をど...
●不平等条約解消、三国干渉受諾の偉業を成し遂げた英明
陸奥宗光がどういう人であるかは、歴史の授業にも出てきます。ここまでに、参議など大臣クラスの官職名が出てきましたが、きちんとした定めはありませんでした。初めての憲政内閣になるのが伊藤博文内閣であり、そこで外務大臣を務めたのが陸奥です。
幕末より日本は不平等条約に悩んできましたが、一連の不平等条約改正に当たったのが陸奥宗光の大いなる偉業でした。その後、日清戦争が始まると軍略に詳しいことからやはり外交の任に当たりますが、終結時には三国干渉を受けることになります。
三国干渉は、ロシア・フランス・ドイツからの圧力で、日本が中国から取り上げたものを返還するようにという勧告でした。伊藤博文は困り果てます。天皇陛下は当時、前線の広島で執務をされていて、閣議も広島で行われていました。陸奥はこの頃、肺結核を患って療養中でしたが、その病床で閣議が開かれました。高熱の陸奥でしたが、どうしたらいいか問われると、言下に「三国を受け入れるように」と答えました。
この干渉に対して伊藤には、戦争に勝っている以上、不当ではないかという考えがありました。列国会議を開き、公平な審判をすべきだという考えだったのですが、陸奥は、「そんなことをすると大騒ぎになり、決着がつかなくなる。外交巧者の中国が何をしてくるか分からない。この機に乗じ、三国に応じて速やかに賠償し、遼東半島を返せば、それで片付く」と言う。実際、それ以降は沙汰止みになり、日本は大混乱に巻き込まれずに済みました。陸奥はこの後ほどなく亡くなりますが、彼のような人物が明治初年にいたのです。
●日本外交の草分けとして新政府をリード
若い頃の陸奥は、当時の風潮として誰もがしたように尊皇攘夷を説き、人物という人物の門を訪ね、勉強に励みました。勝海舟が陸奥に着目して海軍操練所に入れますが、海軍操練所は素性の正しからぬ脱藩者がいるということでお取りつぶしとなります。その後は坂本龍馬の海援隊に入り、倒幕運動の行動家になっていきます。
自伝によると、陸奥は鳥羽伏見の戦いがまだ決着を見る前に「独り天下の形勢を察するところがあり」、幕府軍の後をついて大坂に赴き、後の駐日公使アーネスト・サトウを通じて、パークス(幕末~明治初期の英国公使)に面会を申し入れます。今後の新政府の外交をど...
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