●懐柔のつもりが首謀者にまつりあげられた江藤新平
明治六年政変直後に内務省が新設され、まだ実体が整う前に公表されています。初代長官・大久保利通内務卿としては、内政にこそ全力で邁進したかったのでしょう。当時、各地では士族の不満が非常に高まっていました。
佐賀県で知事(権令)に就任したばかりの岩村通俊という人物が、士族集団のあまりの不穏さに音を上げ、政府に助けを求める書簡を送ってきました。この時、佐賀出身の江藤新平に不平士族をなだめるよう声がかかり、板垣退助からは止められたものの、佐賀へ帰郷することにしました。
ところがちょうどその夜(明治7年1月14日)、高知県士族の武市熊吉らが、皇居から馬車で退出してきた右大臣の岩倉具視を赤坂で襲う事件が発生します。岩倉の命は無事だったものの大事件となったため、「なぜ江藤はこういうときに動くのか」という声が出ます。
江藤はそれに気付かず、長崎で休養していました。江藤同様、鎮撫のために長崎へ来ていた島義勇が、偶然同船となった新知事の岩村高俊(岩村通俊の実弟)の傲岸不遜な態度に怒りを覚え、長崎で江藤と面会。二人の意見は岩村の暴挙を阻止することで一致したため、江藤は不平士族たちのグループに入ることになるのです。
●西郷隆盛は動かず、江藤新平は斬首・梟首の極刑に
佐賀の様子は電信で東京に伝えられ、大久保は全軍出動命令を出すと、軍と処罰の全権を自分で担いました。大久保の動きは激しく、素早いものでした。江藤は最初の小競り合いで勝利したりしましたが、結局は政府軍に負けたところで党を解散、「もはや、これまで」と西郷隆盛に助けを求めに行きます。
温泉で遊猟中だった西郷は江藤の求めに応じず、「君を助けない」と言います。部下を見捨てて自分のところへ来るなどは武士の風上に置けないと、西郷は思ったようです。
元司法卿だった江藤は、フランスに則った司法制度や警察制度をしっかりつくった人でしたから、それらに基づき、理を尽くした裁判をしてもらいたいと考えました。ところが自分が整備させた警察制度により捕縛された彼は、東京どころか佐賀へ引き戻され、審理に先立つ2日前につくられた簡易裁判により判決を言い渡されます。
「斬首・梟首」という極刑が、彼に科せられました。首を落とし、見せしめのために吊るすという最悪の刑罰が即日執行されました。これにより、大久保は冷血漢だという評判が立ちますが、大久保にも理屈はありました。
大久保の頭にあったのは、西郷が薩摩に帰郷していることでした。全国から信望の厚い人ですから、何かの引き金によって祭り上げられることになってはいけない。そのため、江藤の件で極刑を科すことで、見せしめにしようと思ったのでしょう。
●台湾処分を機に征韓論にも事実上のケリをつけた大久保
その後の大久保の行動もまた、迅速で果敢です。ちょうど台湾に緊急避難した日本の漁船乗組員が地元民に殺害される事件があり、台湾を処分しなければならない局面を迎えていました。
これまで大久保は征韓論反対を唱えてきましたが、返す刀で台湾問題については、清国まで出張し、清政府と交渉して賠償金を取ってきます。帰ってくると、横浜港では「これは義挙だ」と市民が集まり、大歓迎を受けました。
これらにより、大久保の行動力や決断力に対する評価は一気に高まります。また、内政について横車を押してくる島津久光と対決し、久光を黙らせることまでしています。この時点で大久保政権の素地ができてくるという感じがします。