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佐賀の乱で「斬首・梟首」にされた江藤新平の凄惨な最期

明治維新から学ぶもの~改革への道(16)佐賀・江藤の反乱と台湾交渉

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授/テンミニッツTV副座長
概要・テキスト
佐賀の乱
明治六年政変の後、内務省が新設され、大久保利通が初代内務卿に就任した直後に、「佐賀の乱」が起こる。前参議・江藤新平を首謀者にまつりあげたこの内乱に、大久保は司法・警察・軍の三権全権を行使する。下野した西郷隆盛周辺への牽制の意味が大きかったという。(2018年11月13日開催島田塾講演「明治維新とは:新たな史観のこころみ」<後編>より、全22話中第16話)
時間:04:42
収録日:2018/11/13
追加日:2019/05/04
≪全文≫

●懐柔のつもりが首謀者にまつりあげられた江藤新平


 明治六年政変直後に内務省が新設され、まだ実体が整う前に公表されています。初代長官・大久保利通内務卿としては、内政にこそ全力で邁進したかったのでしょう。当時、各地では士族の不満が非常に高まっていました。

 佐賀県で知事(権令)に就任したばかりの岩村通俊という人物が、士族集団のあまりの不穏さに音を上げ、政府に助けを求める書簡を送ってきました。この時、佐賀出身の江藤新平に不平士族をなだめるよう声がかかり、板垣退助からは止められたものの、佐賀へ帰郷することにしました。

 ところがちょうどその夜(明治7年1月14日)、高知県士族の武市熊吉らが、皇居から馬車で退出してきた右大臣の岩倉具視を赤坂で襲う事件が発生します。岩倉の命は無事だったものの大事件となったため、「なぜ江藤はこういうときに動くのか」という声が出ます。

 江藤はそれに気付かず、長崎で休養していました。江藤同様、鎮撫のために長崎へ来ていた島義勇が、偶然同船となった新知事の岩村高俊(岩村通俊の実弟)の傲岸不遜な態度に怒りを覚え、長崎で江藤と面会。二人の意見は岩村の暴挙を阻止することで一致したため、江藤は不平士族たちのグループに入ることになるのです。


●西郷隆盛は動かず、江藤新平は斬首・梟首の極刑に


 佐賀の様子は電信で東京に伝えられ、大久保は全軍出動命令を出すと、軍と処罰の全権を自分で担いました。大久保の動きは激しく、素早いものでした。江藤は最初の小競り合いで勝利したりしましたが、結局は政府軍に負けたところで党を解散、「もはや、これまで」と西郷隆盛に助けを求めに行きます。

 温泉で遊猟中だった西郷は江藤の求めに応じず、「君を助けない」と言います。部下を見捨てて自分のところへ来るなどは武士の風上に置けないと、西郷は思ったようです。

 元司法卿だった江藤は、フランスに則った司法制度や警察制度をしっかりつくった人でしたから、それらに基づき、理を尽くした裁判をしてもらいたいと考えました。ところが自分が整備させた警察制度により捕縛された彼は、東京どころか佐賀へ引き戻され、審理に先立つ2日前につくられた簡易裁判により判決を言い渡されます。

 「斬首・梟首」という極刑が、彼に科せられました。首を落とし、見せしめのために吊るすという最悪の刑罰が即日執行されまし...
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