●朝鮮との通商をめぐる齟齬と西郷隆盛の決断とは
さて明治六年政変が起き、西郷隆盛が政府から退いていきます。西郷は「征韓論で負けた」のが定説ですが、実際はニュアンスが違います。
朝鮮の釜山に東莱(とうらい)府という場所があり、鎖国以降も日本の対馬藩との外交・通商の窓口となっていました。明治新政府は、王政復古と開国を李氏朝鮮に伝える際、引き続きここに大日本公館をつくり、三井の手代に商売をさせたい旨、申し入れていました。
韓国政府はこれを認めず、許そうとしません。その意向を無視して強引に外交や通商を始めていくので、朝鮮側の反発があり、大日本公館門前に抗議文が掲出されます。「日本は西洋の制度や風俗を真似て恥じることがない。交易は対馬商人以外に貿易を許していないのに違反した。日本は『無法の国』というべきである」という文言でした。
これを見た日本の外務少輔・上野景範が、一大事であるとして太政官に審議を要請します。審議の結果、正院閣議の原案は武力解決。「居留民保護のため、陸軍若干、軍艦数隻、軍事力を背景に公理公道をもって談判に及ぶべし」と言いました。板垣退助は賛成、西郷は反対。西郷が「まず使節を派遣せよ。非武装で、礼装の全権大使で行く。自らその任に当たる」と言い出したため、明治6(1873)年8月、閣議決定により西郷が朝鮮使節に任命されます。
●岩倉使節団を交えた判断もやはり「西郷朝鮮派遣」
ちょうどこの頃、岩倉使節団から大久保利通が帰国します。海外での使節団の失態に意気消沈していた大久保はしばらく休暇を取ります。次に木戸孝允が帰国しますが、尾去沢・小野組のもみ消しに走っていて、政府の仕事を手伝う余裕がありません。かなりいい加減な内閣です。
9月13日に岩倉具視が帰ってくると、太政大臣の三条実美が西郷から「閣議決定したのになぜ実行しないのか。1カ月も遅れるとはどういうことか」と詰め寄られているところでした。岩倉は、この際大久保に働いてもらおうと考え、休暇から戻ってきた大久保を参議に起用します。大久保は「岩倉・三条が変節しないなら」という条件で、参議に就任します。
ようやく閣議が開かれると、メンバーではなく工部卿にすぎない伊藤博文が勝手に参加しているので驚きますが、政争に利用しようと目論んでいたようです。この席上で大久保が参議に認定される手筈でしたが、三条の怠慢により1日遅れとなります。これに対して、西郷は激怒します。
西郷の怒りに遭い、三条は細工をします。あらかじめ板垣と副島種臣に使節派遣の延期を納得させて、14日の閣議の乗り切りを図るのです。これを聞いて、今度は大久保が激昂します。岩倉は帰朝しているのだから、本来の評定をすべきだと正論を放つわけです。しかし、木戸は依然、欠席しています。
西郷は、「天皇に上奏している決定事項だ。追認すべきだ」と再確認を要請しました。岩倉は「いや。他にも問題があるのではないか」と言い出し、大久保が征韓論反対の7カ条を開陳します。要は、今の日本の経済力で戦争になるのはとんでもないということです。最終的に西郷の朝鮮派遣は、形式的には大久保を含む全会一致で正式決定されます。
●両論を上奏された天皇、反対派を一掃した大久保派
ただし、この決定は大久保の反論に関わらずなされたものですから、大久保は辞表を提出します。岩倉も辞意を表明。西郷が三条に対し、ルールに従った天皇上奏を求めますが、決断できない三条は高熱を発して人事不省になってしまうのです。
ここで大久保が画策をします。岩倉を太政大臣代理に任命し、10月23日、閣議決定を天皇に上奏させます。この時、併せて自分の見解も上奏して、閣議決定を裁可されないよう若い明治天皇を誘導したわけです。これにより、閣議決定は覆されてしまいます。
西郷はそんなことは知りませんから、天皇が否決したことを受け止めて「今はこれまで」と考え、辞表を提出します。翌日には全参議が辞表を提出します。西郷は参議と近衛都督を解任され、陸軍大将のみという扱いになります。
これにより、大久保の総仕上げが行われます。判を捺すのは岩倉ですが、辞表を選別的に受理し、西郷、板垣、江藤、後藤、副島は受理して、木戸、大隈、大木、大久保の辞表は却下させました。つまり、これにより大久保派は反対派の一掃に成功したわけです。この政争に西郷たちは負けたのです。土佐・肥前の勢力が後退し、薩長によるテクノクラートの藩閥専制体制が完成します。