●長州藩の財政
薩摩藩に対して長州藩はこの時代、どのような状態だったのでしょうか。
長州藩は関ヶ原の戦いで西軍側についたため、戦いに負けた結果、112万石の領土がわずか30万石まで削減されてしまいました。長州藩はこの苦境を克服するため、江戸時代初めから新田開発を行い、その増収分を藩財政に組み入れました。長州藩の農民たちは努力して「隠し田」をつくりましたが、長州藩ではお目こぼしは一切なく、全て藩の石高にされました。こうした増収により、とうとう幕末には関ヶ原の戦い直後の3倍まで増石しました。そこには血のにじむような努力があったのです。
しかし先ほど述べた通り、徐々に米中心の経済ではなくなっていきます。長州藩では新田開発だけでは財政は賄えなくなり、その結果、江戸時代後半には長州藩もかなりの借金を抱えました。この借金を立て直したのが、家老の村田清風でした。
村田はまず、藩士たちの借金を肩代わりし、藩はその借金を37カ年の年賦皆済仕法という方法で清算することとしました。これは、37年の間、毎年借入金の3パーセントを払い続ければ元利完済とする方法です。これは37年払えば111パーセント支払ったことになり、37年で利子が11パーセント、年利にして0.3パーセントです。大幅な金利引き下げであるため、その代わりに藩士の俸禄を引き下げました。
それだけでなく、村田は下関に私的な税関ともいえる越荷方をつくりました。そこで商人の便宜を図りつつ、手数料を取ることで儲けを得ました。また、別会計の産業振興期間である撫育(ぶいく)局というものをつくり、特産品の発展に注力しました。こうした取り組みの結果、幕末には相当なお金を持てるまでになりました。
●薩摩藩は南北戦争を利用して軍資金を稼いだ
全国に多くの大名がいましたが、やはり薩摩藩と長州藩が一番財力を有していました。幕末の維新が可能になった経済的な理由は、こうした薩長の力であると言えます。そのうち薩摩藩は、浜崎太平次によって非常に大きな成果が得られました。
浜崎は、上海などアジア諸国で支店網を張り、現代の商社並みにビジネス情報を収集していました。その中、上海市場で綿花の価格が3~4部に暴騰しているという情報を入手しました。この暴騰は、アメリカの南北戦争が原因です。
南北戦争は、1861年から65年にかけて奴隷制度を固持する南部と制度撤廃を訴える北部の間で争われましたが、最終的には北軍が勝利しました。その際に決定的だったのは、南部アトランタで行われた戦闘です。この戦いで北部が勝利した結果、綿花畑が広がるアトランタは陥落しました。
イギリスの綿工業はアメリカのプランテーションで成り立っており、それがアトランタだけでなく南部全体の綿花畑の荒廃により成り立たなくなり、世界中が綿花不足になりました。その結果、綿花の価格は高騰したのです。
薩摩藩はこの戦争を利用して、日本全国を駆け回り、日本のあらゆる綿を最低価格で買い付け、それを上海でトーマス・グラバーに頼み6~7倍で売却し、莫大な利益を得ました。その額は、今のお金にして約6000億円だそうです。これを全て幕府公認で調所広郷が管理していましたので、薩摩藩の軍資金になったわけです。
●長州ファイブの英国留学にも関わったトーマス・グラバーの役割
ここで出てくるグラバーという人物について、簡単に紹介します。長崎のグラバー邸は観光地ですから、多少ご存じかもしれません。この人物は、スコットランドの片田舎であるアバディーンという港町で生まれました。父は海上警備官で、3人兄弟の次男でした。18歳で上海に、21歳で長崎に来ました。
グラバーは、ジャーディン・マセソンという商社における長崎商会の事務員となり、その後、コミッション・エージェントとして独立し、グラバー商会を設立しました。彼は長州藩士の伊藤博文と同い年で、二人は非常に仲が良かったといいます。クラス会、あるいは体育会での付き合いのような関係だったようで、グラバーの伝記を読んでいると、片言の日本語で毎晩のように伊藤と酒を飲んだことが伺えます。年中酒を飲み、いつの間にか仲間になって、自分も志士になったような気分だったといいます。
グラバー商会は次第に大きくなっていきました。後でお話ししますが、文久3年(1863年)に長州藩の5名が英国に密航留学をします(長州ファイブ)。この面倒を全て見たのが、グラバーでした。また、列強4国の艦隊が長州を攻撃に来た際に、長州ファイブの伊藤博文と井上聞多が藩に戦争を止めさせるべき帰国してきますが、グラバーはその案内もしました。グラバーは案内した後、伊藤も井上も首だけが届けられるのではないか、とヒヤヒヤしたそうです。しかし結局、下関戦争は開戦し、砲撃によって長州藩が有する砲台は全て占...