●ハリス領事の来日と交渉
前回お話しした19世紀の世界情勢がある中で、1856年にアメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが軍艦サン・ジャシントで下田に来航します。そして1年3カ月後に、徳川家定将軍に謁見を許されます。翌日ハリスは、堀田正睦、川路聖謨、井上清直など、通商を担当していた者たちに話をします。その時に彼は、「アメリカはイギリスと違って武力で他国を侵略することはしない。だから今アメリカと条約を結べ」と迫ります。そして、「軍艦も大砲もみんなアメリカから輸入しろ」、と言ったのです。ハリスとの具体的な条約交渉は、岩瀬忠震、井上と13回にわたり行われました。
そして1857年の12月に、日米修好通商条約の草案が合意されました。そこでは、横浜、長崎を主要な港として開港し、片務的最恵国条項が入れられました。またこの条約では、アメリカの領事裁判権が認められることとなりました。これが意味するのは、日本に、一般的な法権、つまり裁判権がないということです。また、日本には関税自主権もありません。この条約はとんでもなく不平等な条約であったということです。しかし、力関係でこれを受けざるを得ませんでした。
●老中・阿部正弘の協調路線
老中は阿部正弘です。阿部はそれまでの老中とは路線が相当異なり、諸大名と協調する路線を行きました。なぜなら、その前の時代である天保の時代に、天保改革が行われ、幕府の力を強めるために諸大名を強く規制しようとしたところ、失敗したからです。そのため、阿部は打って変わって協調路線を取りました。阿部は外様とも良い関係を築こうとし、特に薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭、幕政参与でもある越前藩の松平春嶽(慶永)を相談役にしました。この3人はものすごく頭の良い人たちで、この時代の歴史にいつも登場します。
●後継をめぐる政争
もう一つ幕府には底流があり、それは将軍後継者という問題です。将軍の多くは早死なため、後継者選びが自ずと重要な問題となりました。この時期には、将軍であった12代将軍の家慶が36歳で急死してしまいます。そうした状況で、阿部の相談相手であった島津や松平、四国の伊達宗城、山内豊信(容堂)などが一橋慶喜を擁立しようとします。
一橋慶喜は小さい時から天才と言われ、長じてからも何でもこなす天才でした。単なる秀才ではなく、刀も馬も弓も得意で、歌も詠み、歴史にも詳しく、弁舌さわやかで論戦すると大概勝ってしまうという人物でした。ということで、まだ幼い時から天才肌が見えたので、これを擁立しようということです。
しかし、血統からいうと、慶喜は将軍から30親等ほど離れており、随分と遠いのです。それに対して、徳川慶福は当時、12歳ほどですが家定のいとこで、血統主義的には優先されます。そこで慶福を後継者として立てようとしたのが井伊直弼たちでした。この立場は南紀派と呼ばれます。
●幕府の公論聴取とその後の政治的混乱
そんな中、阿部正弘が37歳で急死してしまい、一橋派は大打撃です。老中首座は堀田正睦に替わっていたのですが、幕府は通商条約の締結の是非について安政4年(1857年)の冬に、4度にわたり諸大名に意見を聴取します。この背景には阿部正弘が開明派であり、これまで大名に意見を聞く協調路線を取ってきたという前例があります。しかし実は、この重大な条約の締結に諸大名の意見を聞いたというのは、その後を考えると歴史的には最大の間違いであったと考えられます。なぜなら、これにより、無責任な意見が拡散し、幕末の大混乱が起きたといえるからです。論者の中には、逆にこの公論聴取が先進的な情報公開や、言論の自由を行う開明的政策であるとする人もいますが、これは全くの間違いだと思います。
なぜかというと、諸大名は国の政治を扱っておらず、自分の領地だけを中心に考えてきました。ですから、諸大名は基本的に国家、国政に対しての責任がないため、さまざまな意見を出そうとします。それによって生まれた無用な混乱が、朝廷を利用した反幕府勢力の台頭に大きく寄与したといえます。
これについては岡崎久彦氏(外交評論家)が、非常に明確なことを言っています。すなわち、日本は天皇と将軍がおり、将軍が大政委任という形で、征夷大将軍として天皇から国の政治の全権を任されています。しかし、征夷大将軍という言葉の中の「夷」とは夷狄、つまり外国人を意味します。外敵を打ち払う政治をするための大権を、委託されているのが幕府です。その幕府が委託もされていない大名たちに「どう思いますか」と聞いてしまってはアウトなのです。岡崎氏の考えでは、そうせざるを得ないほど幕府が弱っており、だからこそ幕府が末期だったと言えるのだというものです。
諮問の結果、最初は反開国でしたが、次第に開国もやむなしといった意見に...