●徳川幕府の統治機構と経済力
ここで考えてみたいのは、この徳川時代から幕末までの間に、幕府や雄藩の内部ではどのようなことが起こっていたのかということです。先ほど、徳川は力が弱まっていたため、決定のために周囲の考えを聞かなければならなくなっていたのだという岡崎久彦氏の見解を紹介しました。
しかし、何がどう弱っていたのでしょうか。また、そのときどうして長州や薩摩は影響力を行使できたのでしょうか。
江戸時代は、幕府が経済的に必ず有利になるような仕組みが成り立っていました。幕府は400万石の直轄領を持ち、親藩の領地を含めると800万石近くあり、日本の領土の25パーセントを占めていました。また、強大な軍事力を持ち、鉱山を直轄管理し、貨幣の鋳造権を独占していました。さらには、全国の諸大名に命令し土木工事を行わせる天下普請もありました。城郭建設や治水設備の建設は非常に費用がかかるため、こうした普請を諸大名に行わせていたのです。さらには参勤交代もあります。これは1000人ほど連れていくので、諸大名に莫大な費用を負担させることになり、それによって彼らの財政を弱体化させました。
ところが、江戸時代の後半になるとこのシステムは機能しなくなっていきます。なぜかといえば、商工業が発展していったことで、江戸時代の経済の中心であった米以外のさまざまな産品が流通し始めたからです。
武家は米を独占していたため、農民から米を年貢として徴収し、経済の中心に君臨していました。ところが、商工業が発展して、米以外の産品が流通していくと、米は経済の中心ではなくなります。武家は米を給料としているため、実質的には給料が減ってしまうのです。こうして、武家も、もちろん大名も財政が悪化していきました。
幕府はその際、金の含有量を落とした小判に貨幣を改鋳し、それを以前の小判と同価値で流通させ、その差益を得用としました。しかしそれも長くは続きませんでした。武士階級全体も経済力は低下し、苦境に陥りました。そこで、武家の借金を帳消しにするという徳政令を3回も出し、それにより商人の反発が激化しました。その都度、幕府は商人に札差(金貸業者)をさせて、特別融資を行うことで金融不安を防いでいました。
このような付け焼き刃の対応をしていくうちに、幕府の力が落ちていきました。その原因は、やはり経済でした。米経済の時代が終焉を迎えたことが大きかったのです。200年の間に大変化しました。
●薩摩藩の財政危機と調所広郷による改革
そんな中、雄藩の一つである薩摩藩はどうだったのでしょうか。行ってみれば分かりますが、薩摩藩には火山灰でできた土地が多いのです。また、外様なので、幕府から天下普請をさせられます。彼らが一番困ったのは、木曽川の治水工事です。これは江戸時代で最大の土木工事で、費用は30万両に上りました。
当時、薩摩は既に67万両の借金があり、この天下普請はいわばお取り潰し命令のようなものでした。そのため、幕府に抵抗して割腹するような者もいました。家老の平田靱負以下、自害した者は51人に及び、工事費用は最終的に40万両にまでなりました。最終的には受け入れたのですが、この木曽川の工事で、幕府はそんな仕打ちを行っていたのです。これが徳川の外様いじめです。
こうして、薩摩の借金は雪だるま式に増え、文政10年(1827年)には500万両にまでなりました。金利が高く、利子だけで60万両であるのに対し、藩の収入は12万両でした。借金の金利で藩の収入の5倍です。
この状況を改革したのが、下級武士出身の調所広郷という人物でした。茶坊主として8代藩主の島津重豪に認められ、天保9年(1838年)には家老に抜擢されました。彼はこの大借金をほとんど清算したのです。
どうやって清算したのでしょうか。まず調所は、藩に金を貸している商人たちに借金500万両を250年の無利子分割払いにするよう掛け合いました。これは実質的に借金をチャラにせよという要求と等しいため、商人は驚きました。しかし、商人たちもまたなかなかの薩摩人で、この要求を了承するのです。密貿易ばかりしているので、商人たちは協力する代わりに、密貿易をさせろと交渉したわけです。踏み倒された商人たちにもそれなりのメリットを与えたということができます。
調所は他方で、砂糖の専売と密貿易によって、財政健全化に尽力しました。砂糖の専売は大きな利益でした。その収益は大島、徳之島、鬼界ヶ島といった離島と、琉球からの収奪で得られたものです。砂糖は貴重品なので、内地では高い値段が付いているのですが、非常に安い値段で買い付けていました。しかし、島民には私的売買を禁止し、違反者は死刑に処しました。こうして全てを買い上げ高く売ることを制度化しました。これに密貿易などによる利益を合わせ、...