●長州の攘夷砲撃
幕府は諸大名に、攘夷に関する専守防衛を条件づけました。それにもかかわらず、長州は幕府の布告を無視して砲撃します。文久3年(1863年)5月10日の深夜、久坂玄瑞ら攘夷派は関門海峡で潮待ち停泊中のアメリカ商船ペンブローク号を砲撃してしまったのです。ペンブローグ号は大いに驚き、逃走します。
その後も矢継ぎ早に、外国船への砲撃が行われます。5月23日には関門海峡に入ってきたフランスのキンシャン号を砲撃。同船は玄界灘に慌てて脱出します。
しかし5月26日、オランダの軍艦メジュサ号という最新鋭艦が入ってきた際、それに徹底的な砲撃を行ったことで、状況は一変します。メジュサ号は慌てて逃れました。
●長州ファイブのイギリス密航留学
オランダは呆れて何も行動を起こしませんでしたが、アメリカ、フランスは直ちに報復します。米仏は下関に侵入し猛烈な砲火を浴びせ、長州を粉微塵にしました。オランダも日本との親交に見切りをつけました。
ただ興味深いのは、長州が幕府の抑制も聞かずに砲撃を行ったその頃、なんと5名の長州藩士がイギリスに密航留学したのです。この5名は後に「長州ファイブ」と称されるようになる者たちです。
そのメンバーは、志道聞多(のちの井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)、野村弥吉(のちの井上勝)で、平均年齢は25歳でした。彼らは中日英領事エイベル・ガワーの協力を求め、承諾を得て実行に移しました。
ガワーは、密航留学には1人当たり1000両の費用がかかると5人に伝えます。そこで伊藤の案で、江戸の下屋敷にある1万両の御用金を活用しようということになります。この管理をしているのは村田蔵六(のちの大村益次郎)でした。しかし、簡単に借りることはできないので、1万両を担保に、出入り商人の大黒屋から5000両を借りました。「将来の投資だから」と言ってなんとかごまかして、商人に5000両を肩代わりさせ、費用を調達したのです。
いよいよ船に乗るわけですが、幕府も船をしっかり監視しているので、その監視を逃れるのに一苦労です。ようやくトーマス・グラバーの持っていた「チェルスウィック号」という船に乗った後も、5人は石炭庫に隠れ、観音崎まで息を潜めます。「おまえら、出てきていい」と言われて出てくると皆、石炭で顔が真っ黒だったそうです。
そうして上海まで運んでも...