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長州ファイブ、イギリスへ…長州藩士と薩摩藩士の密航留学

明治維新とは~幕末を見る新たな史観(12)薩長の攘夷戦争

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授
情報・テキスト
薩英戦争(イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘)
幕府が命じた専守防衛原則にもかかわらず、長州は攘夷攻撃を展開し、薩摩は生麦事件に端を発する薩英戦争に突入した。しかし、島田晴雄氏が注目するのは、一方で両雄藩が密航留学を行い、西欧文明をしっかりと受け止めていたという事実である。(全17話中第12話)
時間:10:21
収録日:2018/07/18
追加日:2018/12/07
≪全文≫

●長州の攘夷砲撃


 幕府は諸大名に、攘夷に関する専守防衛を条件づけました。それにもかかわらず、長州は幕府の布告を無視して砲撃します。文久3年(1863年)5月10日の深夜、久坂玄瑞ら攘夷派は関門海峡で潮待ち停泊中のアメリカ商船ペンブローク号を砲撃してしまったのです。ペンブローグ号は大いに驚き、逃走します。

 その後も矢継ぎ早に、外国船への砲撃が行われます。5月23日には関門海峡に入ってきたフランスのキンシャン号を砲撃。同船は玄界灘に慌てて脱出します。

 しかし5月26日、オランダの軍艦メジュサ号という最新鋭艦が入ってきた際、それに徹底的な砲撃を行ったことで、状況は一変します。メジュサ号は慌てて逃れました。


●長州ファイブのイギリス密航留学


 オランダは呆れて何も行動を起こしませんでしたが、アメリカ、フランスは直ちに報復します。米仏は下関に侵入し猛烈な砲火を浴びせ、長州を粉微塵にしました。オランダも日本との親交に見切りをつけました。

 ただ興味深いのは、長州が幕府の抑制も聞かずに砲撃を行ったその頃、なんと5名の長州藩士がイギリスに密航留学したのです。この5名は後に「長州ファイブ」と称されるようになる者たちです。

 そのメンバーは、志道聞多(のちの井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)、野村弥吉(のちの井上勝)で、平均年齢は25歳でした。彼らは中日英領事エイベル・ガワーの協力を求め、承諾を得て実行に移しました。

 ガワーは、密航留学には1人当たり1000両の費用がかかると5人に伝えます。そこで伊藤の案で、江戸の下屋敷にある1万両の御用金を活用しようということになります。この管理をしているのは村田蔵六(のちの大村益次郎)でした。しかし、簡単に借りることはできないので、1万両を担保に、出入り商人の大黒屋から5000両を借りました。「将来の投資だから」と言ってなんとかごまかして、商人に5000両を肩代わりさせ、費用を調達したのです。

 いよいよ船に乗るわけですが、幕府も船をしっかり監視しているので、その監視を逃れるのに一苦労です。ようやくトーマス・グラバーの持っていた「チェルスウィック号」という船に乗った後も、5人は石炭庫に隠れ、観音崎まで息を潜めます。「おまえら、出てきていい」と言われて出てくると皆、石炭で顔が真っ黒だったそうです。

 そうして上海まで運んでもらったわけですが、上海ではジャーディン・マセソンの支店長に会うこととなります。支店長はそこで、「おまえら、一体何しに行くのだ」と訪ねます。彼らはそれに対し、「ネイビー(海軍)の研究に行く」と言うべきところを、なぜか間違って「ナビゲーション」と言ってしまいます。支店長はそのため、航海術の体験を望んでいると理解し、見習い水夫の仕事を割り振りました。

 乗った途端に作業服やモップを与え、「おまえら、ナビゲーションの水夫の見習いなのだから、全部掃除しろ」と言うわけです。食事もまともなものを食べることができず、トイレも水夫用のものはないので、海上に突き出た横木の上で体を縄で縛り付け、強風の中、用を足すという有様でした。5人はまともな旅費を払っているということを主張したかったのですが、英語でうまく伝えることができませんでした。彼らは、そうした苦労をしてイギリスに渡り、勉強をしたのです。


●4カ国連合艦隊の下関砲撃を知り途中で帰国した井上と伊藤


 イギリスで留学生のように勉強をしていく中、5人は大英帝国の繁栄を見て、開国論者となりました。

 そんな中、井上馨と伊藤は、ロンドンタイムスの記事で「近々、4カ国連合艦隊が下関を砲撃する」ということを知り、仰天します。2人は、ことの重大さを伝えて戦争を回避せねばと急いで帰国を決意します。他の3人も帰国を望んだのですが、井上は「おまえらは勉強しに来たのだ。居残れ」と言って押しとどめました。そうして2人だけで帰ってきたのです。その時、グラバーが面倒を見て、長州まで連れていったのですが、藩内で彼らは「戦争しないでください」といったことを言おうとします。そのため、グラバーは「生きて帰れるかな」と思ったそうですが、生きて帰ってきました。しかし、実際には外国との戦争が起こり、ガンガンやられてしまいます。

 残った3人はといえば、山尾は造船業を、野村は鉄道を学びました。野村はのちに「井上勝」と名乗るのですが、「日本鉄道の父」と呼ばれるほどの活躍をします。遠藤は大蔵省に出仕し、貨幣制度を研究して、「日本造幣の父」と呼ばれるに至ります。大阪造幣局の桜の通り抜けは、実は遠藤が発案なのです。伊藤は「日本内閣の父」、井上は「日本外交の父」ということで、5人とも偉くなったのです。


●高杉晋作と奇兵隊


 さて、列強の報復により長州は粉々になるのですが、高杉晋...
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