テンミニッツTV|有識者による1話10分のオンライン講義
ログイン 会員登録 テンミニッツTVとは
テンミニッツTVは、有識者の生の声を10分間で伝える新しい教養動画メディアです。
すでにご登録済みの方は
このエントリーをはてなブックマークに追加

長州攘夷派が排除された8月18日の政変

明治維新とは~幕末を見る新たな史観(13)攘夷派の弾圧

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授
情報・テキスト
三条実美
攘夷派が勢いづいていた長州だったが、孝明天皇の意向が示され、一転して窮地に立たされることになる。しかし事態は、西郷隆盛の行動により変転する。今回は、8月18日の政変から第一次長州征伐への経緯について解説する。(全17話中第13話)
時間:10:30
収録日:2018/07/18
追加日:2018/12/13
キーワード:
≪全文≫

●8月18日の政変と長州内部の大混乱


 この頃の京都は、テロが頻発していました。久留米の神官である真木和泉が入京してきて、「幕府は転覆すべきだ」と大騒ぎしているのです。徳川家茂は京都の攘夷熱があまりにもひどいため、真木が入京した翌日に汽船で江戸へ逃げてしまいます。そうなると、京都は攘夷派の独断場です。公武合体派の公家は襲われたり、家臣は斬られたりして、三条河原に首がつるされるという大変な騒ぎになりました。

 こうした中、高杉晋作たちが調子に乗って、神社に攘夷祈願の参拝をします。「大和国の行幸、神武天皇山陵、春日神社ご参拝だ」と言って、そこへ将軍を連れて行こうとしました。将軍は逃げてしまったのですが、こうした攘夷祈願を天皇のイニシアチブで行おうとしたのです。それでこそ、初めて日本国の攘夷が成り立つと攘夷派は考えました。

 ところが突如、形成が逆転します。孝明天皇のご意向が示されたのです。そのご意向によって、天皇親政は天皇の意思ではないこと、大和行幸は延期すべきであるということ、征幕も幕府には自身の妹の和宮がいるため止めることが示されたのです。

 長州は攘夷祈願で色めき立っていましたが、以上のような天皇のご意向が伝わったことで、状況が一変します。しかも、天皇がこの意思を事前に伝えていた相手である中川宮が中心となり、長州の排除計画が練られたのです。公武合体派の公家衆が計画主体で、会津と薩摩が実行主体でした。

 この計画のために、京都守護職の松平容保が参内し、会津、薩摩、淀藩兵らも九門(御所の門)内に入り、門は全て閉鎖され、朝議がなされました。この宮廷での朝議により、攘夷親政のための大和行幸は延期となり、攘夷派公家の参内は禁止され、国事参政、国事寄人は廃止されました。また、長州による堺町御門警護の解任が決定されました。

 すると、一橋慶喜は参与会議を召集しました。しかし結局、慶喜は呼んだ外様大名の意見をほとんど聞かず、彼の独断で終わりました。

 事態はさらにエスカレートします。その翌年の文久4年(1864年)2月、慶喜が中川宮邸の宴席に島津久光、松平春獄、伊達宗城、その他の大名を呼びました。そこで慶喜は泥酔し、久光、春獄、宗城の3人をまとめて「天下の大愚物」と罵倒したのです。これは何度もテレビドラマに出てくる場面なのですが、慶喜は参与会議を最初からぶち壊すつもりであったと見なされています。つまり、慶喜は外様など相手にしておらず、自分が全て仕切るのだという意思表示を行ったのです。

 その直後、慶喜は将軍後見職を辞して、京都御所の警護のために新しくつくられた「禁裏守衛総督」という、今でいえば警視総監のような地位に就きました。これにより、自分の配下に軍隊を持てるようになったのです。

 他方で長州の内部は大混乱でした。「攘夷を実行せよ」という勅命を本当に実行し、フランス、アメリカ両国の船を砲撃した結果、返り討ちに遭い、8月18日の政変では長州系公卿が追放になり(七卿落ち)、翌年の元治元年(1864年)8月には四国連合艦隊から報復攻撃を受けました。とんでもない有様です。水戸では、過激派が天狗党(水戸天狗党)をつくり、大きな集団を形成します。


●池田屋事件の勃発


 こうした流れから、京都情勢も非常に緊迫しました。8月18日の政変で追放された長州の攘夷派は、京都や大坂に潜伏して再起の機会をうかがっていました。この頃、水戸天狗党が挙兵した騒ぎもあり、そこうしたことも生かしながら、いろいろと画策していました。

 京都守護職の松平容保は、こうした動きを警戒し、彼の配下の新撰組にも厳重なる警戒を命じました。不穏な動きを調べたところ、枡屋喜右衛門という商家が怪しいという情報を新撰組がつかみました。

 そこで一気に踏み込むと、武器や弾薬あることが分かり、謀議を図っている集団がいることを突き止めました。その集団の会合が行われたのが池田屋です。こうして元治元年(1864年)6月5日に池田屋事件が起こります。


●蛤御門の変


 池田屋事件により、8月18日の政変(クーデター)によって逃れて不完全燃焼だった長州の主要な攘夷派の多くが殺されますが、これが長州を本気にさせます。6月15日に長州藩3家老が本隊3000の兵を率い、京都に進発したのです。三方から京都洛中を包囲し、長州全軍が7月18日に京都に進撃しました。

 これがいわゆる「蛤御門の変」で、嵯峨の天竜寺から進撃した木島又兵衛ら1000人が、会津が守る蛤御門を攻撃しました。会津は苦戦しますが、乾御門守備を担っていた西郷隆盛率いる薩摩の兵が桑名の兵と一緒に応援に向かい、木島は銃撃で戦死します。これを皮切りに、長州は総崩れしました。

 また、山崎口天王山を進発して入京した真木和泉隊900人も、界町御門の越前の兵と一進一退で...
テキスト全文を読む
(1カ月無料で登録)
会員登録すると資料をご覧いただくことができます。