●8月18日の政変と長州内部の大混乱
この頃の京都は、テロが頻発していました。久留米の神官である真木和泉が入京してきて、「幕府は転覆すべきだ」と大騒ぎしているのです。徳川家茂は京都の攘夷熱があまりにもひどいため、真木が入京した翌日に汽船で江戸へ逃げてしまいます。そうなると、京都は攘夷派の独断場です。公武合体派の公家は襲われたり、家臣は斬られたりして、三条河原に首がつるされるという大変な騒ぎになりました。
こうした中、高杉晋作たちが調子に乗って、神社に攘夷祈願の参拝をします。「大和国の行幸、神武天皇山陵、春日神社ご参拝だ」と言って、そこへ将軍を連れて行こうとしました。将軍は逃げてしまったのですが、こうした攘夷祈願を天皇のイニシアチブで行おうとしたのです。それでこそ、初めて日本国の攘夷が成り立つと攘夷派は考えました。
ところが突如、形成が逆転します。孝明天皇のご意向が示されたのです。そのご意向によって、天皇親政は天皇の意思ではないこと、大和行幸は延期すべきであるということ、征幕も幕府には自身の妹の和宮がいるため止めることが示されたのです。
長州は攘夷祈願で色めき立っていましたが、以上のような天皇のご意向が伝わったことで、状況が一変します。しかも、天皇がこの意思を事前に伝えていた相手である中川宮が中心となり、長州の排除計画が練られたのです。公武合体派の公家衆が計画主体で、会津と薩摩が実行主体でした。
この計画のために、京都守護職の松平容保が参内し、会津、薩摩、淀藩兵らも九門(御所の門)内に入り、門は全て閉鎖され、朝議がなされました。この宮廷での朝議により、攘夷親政のための大和行幸は延期となり、攘夷派公家の参内は禁止され、国事参政、国事寄人は廃止されました。また、長州による堺町御門警護の解任が決定されました。
すると、一橋慶喜は参与会議を召集しました。しかし結局、慶喜は呼んだ外様大名の意見をほとんど聞かず、彼の独断で終わりました。
事態はさらにエスカレートします。その翌年の文久4年(1864年)2月、慶喜が中川宮邸の宴席に島津久光、松平春獄、伊達宗城、その他の大名を呼びました。そこで慶喜は泥酔し、久光、春獄、宗城の3人をまとめて「天下の大愚物」と罵倒したのです。これは何度もテレビドラマに出てくる場面なのですが、慶喜は参与会議を最初からぶち壊すつも...