●今日の日本につながる陸奥宗光と福澤諭吉の功績
岡崎久彦氏の遠い縁戚にあたる、陸奥宗光という人がいます。この人は、紀州藩の俊才で、坂本龍馬などとも親交があったそうです。彼は、幕末に諸外国との間に結ばされた不平等条約を、十数年かけて全て平等条約に改正するという離れ業をやってのけました。
彼は長く外交に携わっていて、日清戦争時にも病身でありながら軍師的な地位にいました。日清戦争で日本は勝利しましたが、その後間もなく三国干渉によって日清戦争で得た利権を返還するよう求められました。これに反発して、国際社会に訴えて戦おうという意見がありましたが、陸奥宗光は素直に受け入れるように進言しました。大規模な国際会議などが行われれば、また中国の狡猾な戦略にしてやられてしまうというのです。日本は結局この要求を受け入れたので、陸奥の進言が今日の日本につながる道筋をつくったともいえるでしょう。彼は紀州藩という徳川方の藩の出身だったため、あまり出世できず伊藤博文の外務大臣までしか至りませんでした。
また、福澤諭吉もやはり巨大な人です。彼も九州の中津藩という小藩の出身です。懸命に勉強して、最初は幕府を支持して戦えといっていましたが、そのうち失望しました。そして、明治政府が成立しても、同じように失望しました。最終的に若者を教育する以外道はないと思い、100年先を見通して、慶應義塾を創設しました。現在の慶應義塾大学も、大変な影響力を持っています。このように、大変な人材が多く存在していたのです。
●さまざまな見方ができる明治維新の評価
当時の日本、幕末・維新を対象とした地域研究から学ぶことは、ひと言でいえば、日本に大変な民族能力が蓄積していたということだと思います。
維新の評価には、さまざまな見方があります。まず、官軍史観は、薩長は正しくて、薩長が日本を良い方向に導いたという考え方です。
それに対して、占領軍史観、または東京裁判史観と呼ばれる見方があります。これは戦前の日本は革命を達成したというが、結局半封建的な国を残していて、見るべきものはまったくない、日本を民主化させたのは占領軍だというものです。これと同じ論法を用いているのが、左翼史観なのです。そのような史観は、いくらでもつくれるのでしょう。
司馬遼太郎は、なぜか明治政府の中心にいて指導していた人は、ほとんど扱っていません。むしろ、志半ばで倒れた西郷隆盛や坂本龍馬などのことを中心に書いています。
司馬遼太郎は100冊以上本を書き、大変なファンも多く、司馬史観といわれるほど独自の歴史観が多くの人に影響を与えています。彼が実際には何を書きたかったのかということを、『文芸春秋』に書いています。それによると、明治維新の革命は、「鬼胎」、つまり胎盤の中に鬼を抱いてしまうようなものだったというのです。活力ある人が一所懸命に戦って、明治維新をつくったという、占領軍史観や左翼史観に対する反論なのです。
日本の見事な人材が戦って、明治維新を実現した。しかし、明治維新が生んだ政府は、実はお腹の中に鬼を孕んでおり、それが日本を戦争に導き、壊滅させたという歴史観です。あと50冊程度書いていれば、そうしたテーマに取り組んでいたと思います。
●幕末・維新の歴史から学ぶ「民族力や人材の蓄積の重要性」
このようにさまざまな史観がある中で、岡崎氏はありのままを率直に学び、時代の中で、誰がどんな努力をしたかということを調べました。そういう観点から見ると、これまで私はたくさんの時間をかけてさまざまな人材を列挙してきましたが、なぜあの時代にこれほど優れた人材が次々と出現してきたのか、ということが分かるのではないでしょうか。
その理由は、やはり260年間戦争が起こらなかった江戸時代に求めることができると思います。当時の国民の5パーセントが武士でした。家族も含めると、武家は100万人以上いたのです。戦争が起こらない中で、彼らは何をしていたのでしょうか。先ほど言及した川路聖謨は、2時間の睡眠時間で、槍すごきを3000本、棒振り1000本、居合抜き300本に取り組んでいました。さらに、漢詩を読み、歴史を学び、人びとを教育することに力を注いでいました。このような自己鍛錬や社会貢献を、多くの人が200年以上も続けて取り組んできた民族は、おそらく他にはないでしょう。こうした蓄積が、突然のペリー来航にもかかわらず、経験がない人が外交交渉を立派にこなす、もしくは新たに国家を設計し、命懸けで取り組むということができたのだろうと思います。
幕末・維新からこうした日本像を学ぶことができますが、今も歴史の大転換に差し掛かっています。40年周期論という議論があります。幕末から40年で、日本は日露戦争に勝って、世界の列強に数えられるようになりました...