●ローマ史400年で初めて起こった内部闘争
前回いくつかお話があったなかに、ローマは内部の権力闘争が少ないということがありました。これはやはり先生からご指摘があったような、民会と元老院とコンスルという三すくみのチェック機能と言いましょうか。今流にいうと、三権分立の原初的な形にもなりそうですが、それがうまくできているから少なかったのですか。権力闘争が少ない理由というのは、もともとどこに求めればよろしいですか。
本村 少ないといっても、基本には当然ながら貴族を中心とした党派の争いというものがあります。ところが、ギリシアの場合は党派の違いが非常にはっきりしていたのに比べ、ローマの場合は、国内の同じローマ市民同士で争いごとをするのが非常に恥ずかしいことだという意識がありました。戦うのはあくまでも敵であって、ローマ市民同士の戦いは、議論があれば応じるけれども、武器を交えて戦うことはすべきでないという意識が、ローマ人にはどうもあったのです。
紀元前2世紀にグラックス兄弟の改革という事件があり、兄のほうのティベリウス・グラックスが先に殺されてしまいます。ローマ市民同士が争い、流血の事態が起こったということで、ローマ人にとっては非常に大きな事件でした。それまでローマ人は、400年近くそういう事態を避けてきたのです。
ギリシアの場合は、もう少し頻繁に内部で武器を用いています。例えば、僭主がのし上がってくる時もそうですし、その後にスタシス(内部闘争)が起こった時もそうです。そのように市民同士で、単なる議論だけではなく争いが起こるという面もあったのではないでしょうか。
さらに、ローマにはある種の祖国意識みたいなものが非常に強かったという意見もあります。
●貴族と民衆の身分差が権力闘争の少なかった要因?
これはもう制度論というよりも、先生のお見立てですと、第一にはやはり精神論というか、ローマの人々が持っていた精神性なり倫理観に起因するということなのでしょうか。
本村 精神性に起因するのもあるし、貴族と庶民(民衆)の離れ具合もあります。つまり、貴族たちがリーダーなのですが、それに民衆がくっついていく形で、そういうシステムを取っていたため、ローマの場合はやはり貴族をそれなりに敬うということがあったのではないか。ギリシアの場合は、それがもう少しローマよりも希薄で、内部での争いが起こりやすくなる。
そのあたり、非常に初期の時代のそれぞれの国家の仕組みになると、史料がないようなところがあります。ただ、現象としては、貴族と民衆の間の区別なり身分制の違いなりが、ローマの場合ははっきりしていた。それが逆にうまく機能していったところがあるのではないかと思うわけです。
ローマでは、権限の大きな部分を握っていた元老院が300人ほどいたわけですね。
本村 そうです。
これは貴族をもとに構成される形だったと思います。前回、エトルリア人からの独立の話がありましたが、元老になった人とならなかった人というのは、最初の段階においてはどのような違いがあったのでしょうか。やはり当時の有力者という意味なのですか。
本村 そのあたりになると、史料が乏しいから分からないのです。しかし、古来歴然と豪族とか部族長とかいった人々がいて、かれらがある段階で300人(300家族)という形に集約されていくわけです。
ですから500年の間には、古い時代から続いている家系もいれば、もとは平民で途中から新しく金持ちになった人々もどんどん新興貴族として入り込んでいます。その違いはありますが、最も初期の豪族や部族長といった人々に対する庶民の信頼というものが、ギリシアに比べれば強かったのではないかといわれています。
●見識を磨いていくための方法として重視した「父祖の威風」
なるほど。もう少し元老院や元老たちのことについてお聞きしていきたいのですが、もう一つのキーワードに「見識」があると思います。「見識のある・なしによって」というところが見受けられます。つまり、元老院はある種の「見識の府」といいますか、そこを押さえておくべき存在ということになると思うのです。では、元老の人たちがいったいどうやって見識を養っていったのか。ここは、どのように見ておられますか。
本村 それはローマの場合、例えば家族のなかに祖先の彫像を飾っておく。そうすると、このおじいさんや、またそのおじいさんはどうだということを、絶えず家族のなかの誰かがそれを話す。おとぎ話ではありませんが、幼い時から繰り返し聞いているので、彼らは「うちのじいさんは」「そのまたじいさんは」というかたちで、自分の家族の歴史や祖先の業績を知っていたわけです。
そして、それに負けないようになることが、やはり彼らにとっての大きな励み...