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人間は元来ホモ・ルーデンス…遊びから見た江戸とローマ

江戸とローマ~娼婦と遊女(1)遊びと労働

本村凌二
東京大学名誉教授
情報・テキスト
「税金と売春は、有史以前から存在する」といわれることがあるが、人口集中と文明・文化の爛熟の共通項を持つ大都市の江戸とローマにおいて、風俗ビジネスは必然的に盛んになる。近代以降の「労働は美徳」の概念が社会を支配する以前の両都市で、いわゆる「遊びの時間」は人間の生を豊かにするものとして尊ばれていたということである。(全4話中第1話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:09:08
収録日:2021/08/20
追加日:2023/04/17
≪全文≫

●「遊びの時間」に横たわる普遍の存在


―― 皆様、こんにちは。今回、本村凌二先生の「江戸とローマ」の中でも、本日のテーマは「泰平の風俗 娼婦と遊女」になります。先生、どうぞよろしくお願いいたします。

本村 はい、どうも。よろしくお願いいたします。

―― 今日のテーマは「娼婦と遊女」ということですが、やはり大都市になるにつれ風俗的なものが存在してくるということになろうかと思います。先生は江戸とローマの風俗面について、どのようにお考えでいらっしゃいますか。

本村 これは大都市に限らず、男と女がある以上どこにでもある話なのですが、大都市であるがゆえに広範囲にわたるなど、それなりの特徴があるのではないかということです。むしろローマのほうがある程度普遍的で、ローマに限らず人間世界で見られるような話がある。江戸のほうは、それをさらにソフィストケートしたような文化ができているということです。

 その違いというのも面白いと思うし、そういう問題というのはやはり裏で起こっているといえばいいでしょうか。人間の世界を考えたときに、要するに表では政治や生産活動があるわけですが、その裏側には「遊びの世界」が広がっている。これは遊女などの話に限らない「遊びの世界」です。

 人間はもともと「ホモ・ルーデンス」といわれているように、「遊びの時間」や息を抜く空間に生きているのが普通です。 それを「働いていることが真面目でまとも」というように考えてしまうのはどうか。それももちろん必要だけれども、そうではないこともあるわけです。


●有史以前からあるのは税金と売春?


本村 人類の発展する過程を見ていくと、つい1万年前までは狩猟採集の生活をしていた。つまり、必要なときに狩りをやったり、必要なときに周囲にある植物を摘み取ってきたりすればいい。(それ以外の)後の時間は「遊びの時間」だったわけです。

 今のように(例えば)「9時から5時まで働く」というルールのもと、それ以外は余計なことで不要不急である、というような発想ではなかったわけです。

 だから、コロナの問題で「みんながストレスを抱えている」というのは、本来あった「遊びの時間」が非常に規制され、不要不急の余計な時間のように扱われていること(が原因かもしれません)。でも、実はそれこそが人間の本質に関わることです。

 特に遊びの中でも人間では男と女、動物にも全てオスとメスでできている部分があります。そこで交わり、いろいろな形で交流することによりリラックスできる。そういうたぐいの遊びは、どこの世界に行ってもあることで、「税金と売春は、有史以前から存在する」といわれているぐらいのものです。

 その中の姿として、ここではローマと江戸を取り上げて比較していきます。そこでどういう違いがあったのか、あるいは同じようなことがあったのか、ということを見てみようかと思っているわけです。


●「労働は美徳」は近代以降の観念?


―― 今のお話に「労働と遊び」とありましたけれども、労働観というのも文化によっていろいろ違いがあると思います。例えば労働を美徳として考えるのか、あるいは労働をなるべく避けるべき苦役とする考え方もある。本来の人間は、まさに先生がおっしゃったような「遊びの時間」や「余暇の時間」のほうが大事なのだという文化もいろいろあるように思います。

 日本は、どちらかというと「労働は美徳」という傾向が色濃くあった社会だと思います。ギリシャなどでは、どちらかというと労働は忌み嫌われるものだったようですが、ローマに関してはどうでしょうか。

本村 いや、ギリシャ・ローマだって同じです。要するにそれは貴族の文化というか、奴隷がいたから、余計なことは全て奴隷にやらせればいいことにした。貴族というのは、その時間を思索や芸術といったクリエイティブなことに当てて(その時代にクリエイティブという言葉や観念はなかったかもしれませんが)、泥臭い労働は奴隷のすることだとしたわけです。

 もちろん奴隷ではない一般の自由民たちも、そういうこと(労働)をしていましたが、富豪や貴族といわれている人たちはあまりそういうことに携わりませんでした。実際、プラトンやアリストテレスの考え方にも、そういうことが反映されています。

「労働することが価値あることである」と転換したのは近代のことです。近代資本主義というのはそういうものであり、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、まさにそのことを「上部構造論」として明らかにしたのではないかと思うのです。

 だから、時代によって労働観というものは違うし、労働の種類も異なります。日本でも江戸時代には「士農工商」と言われ、農業(生産活動)はいいけれども、商業活動というのは非常...
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