●インテリジェンスが高かったルネッサンス期イタリアの娼婦
―― 日本の場合は、文化の裏付けとなる経済、すなわちお金の部分でも吉原というのは大変な世界で、指名料だけで(現在のお金にすると)10万円ぐらいかかったそうです。また、この本(『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭』(堀口茉純著、PHP新書))によると、3回目で馴染になるときには、車が1台買えるぐらいのお金を、周りのみんなにご祝儀のような形で出さなければならない。そういうことで回っていく社会だったとあります。
そういう豊潤なお金を使って、一種文化的なものをつくりあげていくところがあったのだろうと思いますが、金回りも含めて、非常に独特の世界だったのだろうという感じがいたします。
本村 古代のローマではないけれども、イタリアのルネッサンス期などを見ると、いわゆる高級売春婦というものがいて、その人たちは個別に行動しています。だから非常にインテリジェンスも高いし、一般の人は滅多なことではお近づきになれないけれども、陰では「彼女はそういう人だ」とささやかれている。そういう人たちと付き合うには、貴族たちのようにお金の面でも相当豊かでなければいけなかった。だから、ローマの場合も痕跡は残っていないけれども、個別にはそういう人たちの存在はあり得たかもしれません。ルネッサンス期にそういうことがあったというのは分かっているのです。
―― やはりそれは貴族制だと、そういう要素が出てくるのでしょうか。
本村 そうでしょうね。それから一つには、もしかしたらキリスト教社会というものをくぐり抜けたから(かもしれません)。古代であればもっと露骨にやってもよかったことが、キリスト教社会の中では表立ってできない。そういう時代を1000年ほども続けてきた中で、高級売春婦のようなものが出てきたのかもしれません。
古代については、そこのところは確かめようがないのですが、そういう人たちはインテリジェンスがあるし、ふさわしい話ができて初めて成り立つ。いずれにせよ、非常に即物的なところはあるのではないかという気がします。
●キリスト教以前の道徳価値
―― 「キリスト教の社会をくぐり抜けて」というところでいうと、例えばワーグナーが書いた『タンホイザー』というオペラがあります。あれはタンホイザーがヴェヌスベルクという淫靡な場所に行ったのがばれてしまってローマ教皇に破門されるという話になります。最後は、ヒロインもヒーローも両方とも死んでしまう。ヴェヌスベルク=娼婦のいる場所ということではないのでしょうけれども、暗喩するような話ではあり、そういう道徳価値があったのだろうという気もいたします。やはりヨーロッパでは、そういう文化的な背景も大きいですね。
本村 古代ローマは、キリスト教になる前はもっとおおらかなところがありました。そういう意味では、古代ローマは中世以降のヨーロッパよりもむしろ江戸と比較しやすい。その中で遊女や売春婦がどういうものを持っていたかというと、むしろローマのやっていることはどこでも普遍的に見られたような形だったのだろうと。世界史的に見れば、江戸の遊女文化というものが非常に特殊だったという気がします。
―― 江戸末期の幕末から明治初期に日本に来た外国人などは、吉原文化を見て、あまりにも遊女に対する価値観が違うので、「日本は本当に文化的であって、差別の対象になっていない」と驚いて書き残したケースもあるようです。
●売春の普遍性と一神教世界の侵入
本村 幕末の頃に来たヨーロッパ人たちは、みんなキリスト教徒なわけですよ。だけど、ローマの場合、四世紀以前のローマというのはそういうことを知らないで来ている人たちです。世界史的に見れば、そうではない世界=ローマ的なもののほうが、どこにでもあったというように考えられるわけです。キリスト教やイスラム教的なもの、すなわち一神教というものを排除した世界という大きな枠の中で見たときでさえ、やはり日本の遊女文化というのは極めて特殊でした。
一神教世界は、そのような人間の行為の中の、心の世界にまで入り込んでくるわけです。つまり、極端にいえば、盗んではいけないし、盗もうと思ってもいけない。それから売春の世界であれば、イエスの言葉にありますが、「人妻に手を出してはいけない」どころではなく、「そのように思ってもいけない」というように、聖書などには書いてあります。
マグダラのマリアをみなが攻撃しようとしたときもそうです。彼(イエス)は、「おまえは実際にそういうことをしてはいないだろうけれども、心の中で思ったことはないか」と尋ね、諭しています。
だから、一神教の世界は心の世界まで入り込んできて、心を規制しようとする。その意味では、人類史の中で非常に特殊な世界であ...