●グローバル化について根本から考え直してみる
それでは、これから西洋文明とグローバル化の問題についてお話しいたします。私の専門は古代ギリシア哲学と西洋古典学ですが、今回はその枠から離れて、現代の社会について自由に考えてみたいと思います。
まず、「グローバル化・グローバリゼーション」という単語が普通に使われていますが、「グローブ(globe)」はもともと地球という意味です。つまり、グローバル化は国境や地域を超えて地球全体で広まるような流れです。
これは近年になって使われるようになった単語で、おそらく地球の環境問題や国際政治を考える場面が増えたからでしょう。ただ実際には、地域や国の限定がなくなり、世界中が同じになったということで済むのかというと、そうでもないのではないか。そのことを、今回考えていきたいと思います。
その場合、「地球化している」といわれるものは、少し極端な言い方をすると、これまで「西洋」といわれてきたものが拡張して、地球全体に西洋的なものの考え方や見方が広まったと捉えることもできると思います。
その点を根本から考えてみるのが、今回の趣旨です。グローバルは、最近では批判的な意味でも使われ、「反グローバル」の流れも生じています。そのあたりの問題の根も合わせて考えてみたいのです。
●直面しているのはグローバル化なのか、西洋化なのか
実際にグローバル化ではどんなことが進んでいるのか、反省してみましょう。例えば、インターネットの世界では、通信機器を通じて世界中で即時に情報が共有されています。そこで使われる言語は英語が中心です。通貨ではEUROなどが出てきて、以前と比べるとかなり統一化が図られています。
世界全体の流れとしては、もちろん国際的な政治の場面もありますが、例えば「民主主義」、経済の分野では「自由主義経済(資本主義)」、さらに都市空間や私たちの生活スタイルもかなりグローバル化して、以前のようなその土地独特の伝統というボーダーがやや薄れてきているのが現状だと思います。
とりわけ哲学的な分野では、「個人主義」のものの考え方、あるいは「人権」「自由」「プライヴァシー」といったものがグローバルのスタンダードとなっています。でも、これらはもともと西洋の文明の中で培われてきたものを、私たちが共有する段階に入っているのです。その問題を考えていくということです。
グローバル化とは何かを反省するに当たって、私がまず注目したいのは、「西洋文明」ということです。西洋は英語で"West"、東は"East"あるいは"Orient"と呼ばれますが、文明を大きく東と西に分ける言い方です。
現在の社会の中で「グローバル」というと、かなり近い意味で「西洋化」になっていると思います。それを私たちが一旦意識して、受け取る。その上で、今後日本はどのように振舞っていくかを考えることが必要で、いきなり「東洋も西洋もなくなった」とか「日本も世界もみな同じ」というわけにはいかないのではないかということを考えていきます。
●「ギリシア・ローマの古典+キリスト教」=ヨーロッパ
この「西洋」という単語の範囲を少し狭く、あるいは厳密に考えると、ヨーロッパの中でも西ヨーロッパと北米(アメリカとカナダ)を合わせて普通、西洋と呼ばれています。その場合、北米も含まれますが、「ヨーロッパ(Europa)とは何か」ということが問題です。「ヨーロッパって、あそこの大陸のあの辺でしょ」とお思いかもしれませんが、実はヨーロッパというのは、ある意味では非常に文化的な概念です。
一言で定義すると、「ギリシア・ローマの古典+キリスト教」=ヨーロッパ。しかもキリスト教をさらに厳密にいうと、カトリックとプロテスタントで、ギリシア正教やロシア正教では、ちょっとずれてきます。このように、細かいことを言い出すともう少し留保が必要ですが、大きな言い方で「ヨーロッパ」と呼んでいるものは、ギリシア・ローマの古典を先祖として、キリスト教の社会で成り立ったもの、その歴史を共有する人々が「自分たちはヨーロッパだ」と考えているわけです。
これは近年のEU加盟問題にも反映されています。なぜトルコがなかなかEUに加盟できないかというと、やはりキリスト教の文明を共有していないことがネックになっているわけです。地理的にはイスタンブールはヨーロッパにあるので、トルコが入ってもおかしくはないのですが、実際には文明の出自のようなものがさまざまな政治情勢にも関係しています。
さて、「古典」という単語について、私たち日本人には、古典といえばどちらかというと中国古典を指すことが多いのですが、英語(やドイツ語)で"classics"...