●日本の近代化は西洋になろうとしてきた歴史
グローバル化と西洋文明を考えるに当たり、今回は私たち自身の問題として「日本」、そして「西洋文明」の問題をまとめて考えてみたいと思います。
日本と西洋の関係というと、古くは16~17世紀に南蛮貿易の時代もあれば、江戸時代にも「蘭学」がありました。しかし、何といっても19世紀の半ば、ペリーが来航した時代から幕末維新、明治以降の急激な西洋との出会いが、今日の話の中心になります。この時期の日本は、「鎖国」と呼ばれる長い時代から急に「開国」しますが、その段階で西欧列強の政治力・軍事力・技術力を目の当たりにし、彼らと肩を並べることを「近代化」と呼ぶようになりました。
日本は近代化の必要に迫られたわけですが、単にそれが望ましいというだけではなく、そうしないと国が植民地化されるという切迫した状況で、日本の開国が起こったわけです。その近代化とは西洋化とまったく同じだったということを、今回のお話で明らかにしていきます。
近代すなわち西洋で、日本は遅れていた時代ということで、西洋と同じになるように西洋文明を取り入れることが、19世紀半ばの日本(明治政府)の最大課題となりました。その場合、鉄道や電信といった科学技術の成果を取り入れるのは当然ですが、それらと並んで、法律や社会制度、教育制度などを取り入れることも西洋化でした。つまり、私たちが今社会で身に付けているほとんどのものは、このときの近代化・西洋化によって日本に導入され定着したものなのです。
近代化の目標となっていたのは、西洋すなわちヨーロッパでした。有り体にいってしまうと、日本は西洋人になりたかったのです。自分たちは西洋人と同じなのだと認めてもらいたい。そのために着物から洋服に着替え、ちょんまげを止め、刀を止めたということです。それをどう思うかということとは別に、私たちが今洋服を着ていることに表れているように、日本の近代化は西洋になろうとしてきた歴史だと思います。
●西周が気付いた「西洋の考え方を学ぶ方法」とは
近代化以前の日本は、どっぷりと東アジアの文化伝統の中にありました。中国、インド、そして日本独自の伝統の中にあったわけですが、19世紀の西洋は、それまでの近代文明が急激に進み産業革命が起こった時代でした。そのため、日本は一番ギャップの大きい時に西洋と直面する...