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「サイエンス」の本来の意味である「知識」とは何か

西洋文明の起源から見るグローバル化(4)科学の起源

納富信留
東京大学大学院人文社会系研究科教授
情報・テキスト
現代にいたる科学の始まりはギリシアにあった。ただし、当時の人々が考えていたのは自然科学領域だけではなく、「証明され、体系を持ち、真理を表す知識」の総体がそう称されたのである。科学と技術は決して混同されることなく、純粋に知を追求する科学は、有用性の高い技術を担うより高く評価されていた。(全6話中第4話)
時間:11:33
収録日:2019/05/29
追加日:2019/08/01
≪全文≫

●「サイエンス」のもともとの意味は「知識」


 今回は、学問の話に引き続いて、私たちの世界理解と生活の基盤となっている科学について考えていきたいと思います。おそらく予測される通り、科学もギリシア起源だったというのが、ヨーロッパの人たちの一致した見方です。つまり、現代にいたる科学の始まりはギリシアにありました。

 科学という単語を考えてみると、私たちは「科学」という字を書きます。これは西周の時に定着したのですが、“science”は、ラテン語の“scientia”、ギリシア語では“episteme (エピステーメー)”、もともとは「知識」という意味です。そこに一つ一つの知識、例えば数についての知識が算術、図形・空間的なものについての知識が幾何学、天体の運行についての知識が天文学ということで、それらが含まれるということがもともとの意味でした。つまり、“sciences”で学問ということになります。

 19世紀の半ば、西周らがヨーロッパに留学した時、これらは大学の中で非常に細分化していました。そこでヨーロッパの学問に接した日本人(西周ら)は、それぞれが「分科」しているという意味で、「科学」という名前にしたといわれています。よって、本来のサイエンスはそういう意味ではなかったということを念頭においてください。

 いずれにしても、私たちが「科学」と呼んでいるものは、それぞれの領域の知識・学問という意味だったわけですが、そもそも知識とは何か、学問とは何かを徹底的に考えたのもギリシア哲学です。アリストテレスという、全てのものを総合的に成し遂げた巨人のような人がいましたが、彼が「知識とはどういうものか」ということを定義しています。彼の著作の一つに学問論を行っているものがあり、その中で「知識とは、こういう条件を満たさなくてはいけない」と考えたのが、現在まで受け継がれてくる一つの知識というものになりました。

 いろいろなものを知っているとか、たまたまいいアイデアを思いついたようなことを知識とは呼ばない。知識とは、きちんと証明された、全体として体系として成り立っているものでなくてはいけない。しかも、それは真理を表していなくてはいけない。そういう考え方がギリシアにおいて成立しました。そして、前回お話ししたユークリッドのような人たちが実際に行っていた研究は、そういうものを目指すということでした。


●科学と技術を別物として区別するヨーロッパの伝統


 もう一つ、私たちになじみの単語として「技術(technology、technique)」があります。日本語の場合、現在では「科学技術」というように合成してしまい、ひとまとまりに扱うことがありますが、元来これらはかなり違う単語です。

 この違いが非常に重要なのですが、科学は純粋に理論的なものであって、基礎科学に当たるものです。一方、技術は、理論が多少十分でなくても、それを応用して何かに役立てること(technology、technique)です。この二つは、現在ではなかなか区別できない場合もありますが、ギリシアにおいては厳然と区別されていました。もっとはっきりいうと、科学は非常に素晴らしいものだが、技術はそれほど重要視すべきものではないという考え方です。

 どういうことかというと、私たちが学問をするのは、知識を身に付ける、すなわち「知る」ことが重要なのであって、それが何かの役に立つとか、お金儲けができることは全く論外、関係のないことで、そういうものはない方が純粋なのだという考え方です。

 やや余談になりますが、私はいつも学生にノーベル賞の話をします。日本でも時々自然科学の分野でノーベル賞を受賞される方が出て、非常に嬉しいことなのですが、マスコミからはすぐに「これはどういうクスリになるのですか」「いつ患者さんを治せるのですか」と質問が出ます。あれはまったくノーベル賞の趣旨から外れています。ヨーロッパの学問というのは、何に応用できるかとか、それがどんな役に立つかということは一切度外視して、例えばニュートリノでも何でもいいのですが、その対象を知る、真理を純粋に知るところに価値が置かれるのです。

 素晴らしいクスリが開発されるのは嬉しいことですが、それを目指してやっているわけではないのです。宇宙の真理を知る、人体の真理を知る、あるいは物の組成の真理を知る。これが科学というものの在り方であり、結果的にさまざまなところに応用されて、発展するのが技術です。この二つはかなり違うものだということが、西洋の学問の考え方の基本にあります。

 日本は19世紀以来、最初から技術を重んじようとしてきました。東京大学は工学部を世界で初めてつくったのですが、日本人がこの二つを比較的一緒に扱おうと思っていた証拠です。いい悪いは別にして、西洋と日本の考え方の違いが出ているところだと思います。

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