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同調圧力で何も言わない若者、議論を阻むタテ社会の壁

現代人に必要な「教養」とは?(3)ダイバーシティの場とタテ社会の問題

情報・テキスト
知識が圧倒的に不足していた時代には、いわゆる「知識人」とよばれる人が尊敬された。しかし、情報があふれ、それに誰でもたやすくアクセスできる現代では、知識の多寡は教養の有無にとって決定的な条件ではない。むしろ違う分野の人と交流し、互いの知識を結びつけ、新しいものを生み出す、ダイバーシティの場に着目したい。(全8話中第3話:2022年6月29日開催ウェビナー〈現代人に必要な「教養」とは?〉より)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:15:28
収録日:2022/06/29
追加日:2022/10/14
≪全文≫

●知識が増えてしまった時代、本質も変質していく


―― そういう意味でいうと、冒頭で言われたような高等遊民、教養主義でシニカルに批評だけしてしまうような人、「私は知っているが、それは無理だね」と言ってしまうような人というのは、知ってはいるけれども教養がないということになるわけでしょうか。

小宮山 (そういう意味では)今は比較的いい時代になってきましたね。昔は、「いや、それはねえ、難しい。できないんだよ」と言っているほうが賢く見えたし、当たる確率が高かった。

―― 昔は「できない」というほうが当たったのですか。

小宮山 そうです。いわゆる知識というものが人間に少なかったから。ところが今は、ものすごく知識が増えてしまった。だから、信じられないようなことが急激にできるようになっています。

 テンミニッツTVでも以前に話しましたが、典型的なのが、たくさんの専門家の中で「一番速いという人でも3年はかかる」と言っていた(新型コロナの)ワクチンで、10カ月ほどで市場に出てしまいました。あれなどはいい例で、だから私などは、2050年のゼロカーボンについて「そんなこと、できるに決まっている」と思っているわけです。それについての根拠が大量にあるわけではないけれども、そう思います。

 だから、変わってきたのではないかな。なんといえばいいでしょうか。

長谷川 (昔は)知識があって、ある程度ものが見通せる人が「そんなことできませんよ。駄目ですよ」と言っているほうがかっこよかった。

小宮山 そうそう。

長谷川 でも今は、それではかっこよくなくなったわけですね。

小宮山 そうです。膨大な知識を持つ人間がえらいのは、アリストテレスの頃は当たり前だったし、デカルトやカントの時代もそうでした。ところが今では、例えばデリダのような人であっても、「今のAIは知らないでしょ」と言われるようになっています。(かれら先哲に)聞けば「本質は変わらない」というだろうけれども、では本質とは何か。どこにアプライ(=適用・応用)するかによって本質すら少しずつ変質してきます。だから、教養というのも当然変質してくるのだろうと思います。


●オープンイノベーションとダイバーシティの重要性


―― 今言われた「昔はできないと言うほうが確率が良かった。これからはできると言ったほうが確率がいい」というのは、非常に本質に属する話でもあると思います。

長谷川 昔は「どうせできない」というようなことを言うほうが当たるし、かっこよかったかもしれないけれど、今はもしかしたらできてしまうわけです。だから、知ったかぶりして、「そんなことできないよね、無理だよね」と言っていると、何かポッとできてしまうかもしれない。そうすると、とてもかっこ悪いですよね。

―― そうですね。

小宮山 オープンイノベーションなんて、背景にあるのはそれです。自分の会社だけではできないけれども、できる人がどこにいるか分からない時代だから、オープンにしたほうがうまくいく確率が高い、というように。

長谷川 それで、コネクションの数がずっと増えましたね。

小宮山 ええ。

―― いろいろ学びたい、知りたいというときに、ひと昔前の評論家的に、できない理由を探したり、こんな社会は打倒しようという話になるのではなく、「どうやったらできるか」という知を探したほうがむしろ近道かもしれないということになりましょうか。そのへんはどう思われますか。

小宮山 そうです。だから、やはり最後は議論なのでしょう。自分で本を読んで学ぶといっても、もうスピードが追いつかない。だから、もちろん本は読むけれども、大学などによく分かっている人がいるわけだから、そういう人たちを探して議論する。

 学生の頃であれば、そんなに深くなくていいので、分野の違う学生同士、例えば文系と理系の学生で議論する。運動部の学生と文芸部の学生が話すのもいい。それこそダイバーシティですよね。年齢や経験に応じて、違う分野の人たちと議論していくことが非常に大事なのだろうと思います。

長谷川 日本では、違う分野やバックグラウンドの違う人たち同士が集まって話をする場そのものが非常に少ないし、精神的にもいわゆるタテ社会のバリアが強いように思います。

 AIやロボットの研究が非常に進んでいるMITでは、同じフロアに哲学の人などもいて、人文系の人とエンジニアリングが専門の人がしょっちゅう話をする場があるから、いろいろなことを考えている、といわれます。そういうところが、日本には本当に少ないと思います。

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