●キリスト教はローマの神々を認めなかったために迫害された
おそらくディオクレティアヌスという隠然たる力がどこかに働いていたのかもしれませんが、コンスタンティヌスは313年にいわゆるキリスト教を公認するわけですね。キリスト教徒になれと言ったわけではないのです。
キリスト教徒が迫害され虐げられていたといいますけれども、はっきり言えばローマ帝国からすれば、キリスト教は本来ならば別に迫害すべき対象ではないのです。なぜかというと、ローマ帝国というのは大体全ての宗教は認めているからです。
ところが、キリスト教徒だけは自分たちの宗教が正しい、他の神々は全部間違っている、あるいは他の神々はないのだと主張します。つまり唯一の神しかないというように考えますので、ローマ帝国の中で神々に対する祭礼がいろいろなところにありますが、そういうものを否定します。
それから、ローマ皇帝をないがしろにするとか、そういうことをする。つまり、ローマが「これさえやればいい」と言っていることをやらないために、キリスト教徒は結局、迫害されざるを得なくなってしまったのです。
ローマとしてはそれさえ守ってくれればキリスト教を別に迫害する必要はなかったのに、あまりにもかたくなに自分たちの宗教が正しいという形で主張するものですから、だんだんキリスト教を捨てろという形になってきたのです。
キリスト教をもともと迫害していたわけではないけれども、キリスト教徒があまりにもかたくなにローマにあるさまざまな神々を否定するから、そうなったのです。
●当時のローマの民衆にとって一神教は異質だった
その当時の人たちにとって、神々が存在するというのは当たり前のことでした。当然のことだと彼らは思っているわけなので、そういうものを否定するということは、ローマの民衆から見れば、キリスト教を信じる者が無神論者に見えるのです。神々の世界を否定しているわけですから。
今でこそ、われわれは一神教というものの在り方を知っているものですから、キリスト教が無神論者の宗教だとはいいませんけれども、その当時の多神教の世界に生きて、それが当たり前だと思っている人にとって唯一の神しか存在しないなどというのは無神論者と同じようにしか見えないのです。
ですから、そういう立場からすれば、キリスト教は自分たちが自然に信じている神々の世界を否定しているわけですから、後になってキリスト教を捨てるようにという禁令が出てくるということになるのです。
●キリスト教の公認はローマ内に軋轢をもたらした
しかし、そんな中、キリスト教を公認します。その場合、キリスト教の禁令が解けて、たくさんの宗教の中の1つとしてキリスト教が認められます。しかし、ローマが一神教を認めるということは、一神教の中では他の神々を否定しているわけですから、その後当然あつれきが起こるわけです。
コンスタンティヌスがそういう形で、一神教で他の神々を否定するキリスト教を公認してやったがために、4世紀の時代というのはキリスト教とそれまでのローマの、あるいは地中海世界の神々との間の確執がさまざまな形で起こってくることになります。
●コンスタンティヌスの改革は財政問題を生み出した
コンスタンティヌスは、ミラノ勅令によってキリスト教を公認したということで非常に名高いわけです。しかし、彼は唯一の権力を握って、またローマ皇帝として絶大な力を振るった時、基本的な改革路線というのはやはりディオクレティアヌスの改革路線を継承していくわけです。
官僚制を基盤とする文官と軍人を分け、官僚の組織をきちんと整理するとか、それから国家の、あるいは皇帝の管理を強大化する、ということを進めていきます。つまり、ローマ帝国は長い間チープガバメントできたんだけれども、そうではなくて、国家から派遣された、あるいは皇帝の直接の影響力がある、またはそこから指令がある、そういう役人を重視するということで、チープガバメントではなくなっていくわけです。
当然ながら、そのようなことをすると財政負担が掛かってきます。それから、軍隊ももちろん充実させるということで、これもやはり財政負担が掛かります。コンスタンティヌスがやった軍事改革の中では、野戦部隊の創設があります。野戦部隊というのは、それまでのようにどこかに駐屯しているのではなくて、もう少し機動性を持って必要なところにパッと移動していく、そのための移動手段をいろいろと持っているような野戦部隊を拡大しました。例えば、騎馬戦といいますか、要するに騎兵隊ですね。そういうものを充実させるといった形で軍事改革を行いました。
●「ソリドゥス金貨」をつくり、貨幣の安定化に努めた
それから、当然ながら経済の安定のために、ディ...