●ストア哲学を信奉していたディオクレティアヌスの引退の見事さ
しかし、ディオクレティアヌスという人は、1人の人物として見ると、恐らくストア哲学というものを非常に信奉していたのではないかと言われています。彼は自分が40ぐらいで皇帝になりますけれども、60歳くらいになったときに、305年でしたか、自分から引退するのです。引退を申し出たのです。もちろん体調が悪くなって、高齢に、その頃の60というとかなりの高齢ですから、そういう体調が悪くなったのでしょうけれども、彼は引退をすると言いました。
そして、この時に自分の同僚で正帝だったマクシミアヌスに対して、「おまえも引退しろ」という感じで引退させるのですけども、マクシミアヌスにすれば、「俺、せっかくローマ皇帝になったのに」といって、本当は渋々引退することになってしまうのでした。
後にマクシミアヌスは権力争いに巻き込まれていくところもあるのですが、ディオクレティアヌスという人の引退の見事さを話すと、彼は実際に引退してから亡くなるまで10年とはいかないまでも、7~8年ぐらいは生きていたのではないかといわれています。
今現在バルカン半島のアドリア海に面した所にスプリトという街がありますけれども、そこにディオクレティアヌスの別荘があって、そこで彼は畑仕事をしていたといいます。彼はストア哲学者というか、ストア哲学を信奉していたらしいのです。引退の見事さもそれに由来するのでしょう。ストア哲学では、公務はきちんとやるけれども、むしろ自分の時間を大切にするといったところがあるので、彼は引退して畑を耕しました。
●引退後も求められたディオクレティアヌスのリーダーシップ
ある時に1回だけ公の場所に姿を見せました。それはちょっとした、さまざまなことで混乱といいますか、紛糾していることがあったので、ディオクレティアヌスがそこに出ていった時に、何か意見を言ったのでしょう。
それはともかくとして、やはり周りの人はディオクレティアヌスのリーダーシップなり、リーダーとしての絶対的な資質を知っていますから、「もう一度、ディオクレティアヌスさま、もう一度ローマ皇帝として指揮を執っていただけませんでしょうか」と言って、周りの人たちが彼にもう一回立ち上がってもらおうとしました。
しかし、彼は「私は引退した。別荘でのキャベツの世話がどんなに忙しいか、分かっていない。自分にとってはローマ帝国なんか、もうどうでもいいのだ」と言ったようです。
そう言ったかどうかはともかく、とにかくきっぱりとその申し出は拒否したと言われています。
●潔く皇帝を引退したのはディオクレティアヌスだけ
それから、彼は引退して7~8年後に亡くなったということですが、亡くなった事情というのは、あまり詳しく分かっていないのです。しかしおそらく自殺したのではないかと言われています。
自殺というのは要するにこういうことです。ストア哲学者というのは、自分の世話が自分でできなくなったときには自殺しても良いという考え方を持っているのです。ですから、おそらく彼は自殺といいますか、自死といいますか、場合によっては食事を断って自然死状態ということをしたのではないかと言われています。ローマ皇帝で、しかも絶大な権力を持っているローマ皇帝が自ら引退したというのは唯一これしかありません。
辞めさせられたのは最後のロムルス・アウグストゥルスという皇帝が、475年に西ローマ皇帝になって、476年に廃位させられたわけですね。殺されはしませんでした。途中で暗殺されたりした皇帝はたくさんいます。しかし、辞めさせられた皇帝は最後の皇帝だけです。
それではなくて、自ら進んで退位したのはディオクレティアヌスだけなのです。それくらい非常に印象に残ります。潔さとか、さまざまな改革を行ったという意味では大変な皇帝なのですけれども、キリスト教徒を迫害したということがいわばネックになり、欧米の人たちにはあまり敬意を抱かれないということがあります。
●争いがないようにつくった四分治制だが、退位後に争いが起こった
その後、マクシミアヌスや、コンスタンティウス1世(これは後のコンスタンティヌスのお父さんに当たります)ガレリウス、マクセンティウス、マクシミヌス・ダイア、リキニウスといった皇帝が出てきました。いわゆる四分治の時代で正帝と副帝がいるわけですが、その中でもいろんな皇帝が入れ替わり立ち替わり出てきて、場合によっては相互に戦ったこともありました。ディオクレティアヌスがせっかくお互いの争いがなくなるようにと思って四分治制をつくりました。しかし、ディオクレティアヌスが退位した途端にそういった争いがまた出てきてしまった。
ですから、先ほど言いましたように、ディオクレティ...