●全属州の自由民を認めた「アントニヌス勅法」
ローマ帝国の普遍化を象徴するのは、セプティミウス・セウェルスの息子であるカラカラ帝が212年に出した、“Constitutio Antoniniana”です。「アントニヌス勅法」と訳されますが、「ローマ帝国の中にいる全自由民はローマ市民である」ということをうたったものです。
それまでは、ローマ市民とローマ市民ではない「外人」とが区別されていたわけです。しかしローマは、前にも話したように、ローマ市民権の付与に非常に積極的でした。ですから、市民はもちろん徐々に増えていたわけですが、212年の“Constitutio Antoniniana”によって、もはや「全自由民にローマ市民権を与える」ということになりました。いわばローマ帝国は、ある意味ではその時に完成したといっていいのです。
ローマやイタリアと区別された属州という形ではなく、全体が一つの国家の中に編入されているのです。もちろん単位としての属州は残っていきますが、ローマやイタリアに縛られない、広い意味でのローマ帝国が、そこで出来上がることになるのです。
●「軍の時代」に気付いていたセプティミウス・セウェルス
セプティミウス・セウェルスは、もう一つ、大事なことに気付いていました。コンモドゥスが皇帝になった頃から、いやそれ以前から、ローマ帝国の根本にはローマの軍事力があること、すなわち「軍事力あっての国家」であるということです。
ただ、五賢帝の時代は、それぞれが優れた皇帝で、しかも徳を備えた人だったので、そこのところがあまり目立ちませんでした。ところが、コンモドゥスのような、権威はないのに偉ぶっているような皇帝が出てくることになりました。彼がローマ皇帝になった背後には、やはりローマ市民が自由民によって占められていることがありました。
つまり、ローマ市民を支配する大きな権力として、五賢帝の時代には「美徳」がありましたが、その背後にはさらに強い軍事力があり、そのことが、コンモドゥスのようなあまり権威のない皇帝が出てきたことによって、非常にはっきりしたわけです。
セプティミウス・セウェルスは、コンモドゥスなどと比べると無論相当に優れた面を持っていましたが、「ローマにとって軍事力が一番の基本」であることは、むき出しに見えてきていたということです。
●カラカラとゲタの権力争い
セプティミウス・...