●マルクス・アウレリウスから実子コンモドゥスへ
前回のシリーズでは「五賢帝」についてお話ししましたので、今回はその後について話をします。
五賢帝の最後は、「哲人皇帝」として名高いマルクス・アウレリウスです。非常に立派な皇帝で、後世から見た最大の失敗は、実子であるコンモドゥスを皇帝に指名したことだといわれています。実際、父であるマルクス・アウレリウスが亡くなった後、コンモドゥスがとんでもない皇帝であることが分かってきたために、そういわれているのです。
五賢帝の多くは、後継者を実子よりも養子に頼り、最も適任者を指名するという形を取り続け、それが功を奏していました。それに比べ、コンモドゥスは実子です。ただ、それまでの五賢帝が、実子を後継者に指名することを避けたというのは当たりません。子どもがいないか、いても幼い間に亡くなることが多かったため、実子を指名したくてもできなかったのです。そこで、実質的な方法として、周囲にいる者の中から最適な人を選ぶしかありませんでした。
マルクス・アウレリウス帝の場合は、実子コンモドゥスがいました。父親の在世中、わがままを出さず、真面目に振る舞っていた息子コンモドゥスですが、父親が亡くなり皇帝の位に就くや、思い通りのやり方を通すようになります。ストア派哲学者で「哲人皇帝」と呼ばれた父親への反発もあったのでしょう。
●プラトンの理想「哲人王」を追った父と反発した息子
ストア派の哲学にのっとってローマの政治を行うのは、600年以前のプラトンに源流があります。ギリシャのプラトンが理想にしたのが哲人王(皇帝)だったからです。
古代ギリシャのポリス、特にアテネは民主政という類いまれな政治形態を編み出し、実現していました。しかし、現代風にいうとポピュリズムが横行し、民衆が自分勝手な欲求や欲望に走ります。その結果として、紀元前5世紀から4世紀の初めごろ、ギリシャの多くのポリスは民主政そのものがあまり機能しなくなる事態を経験しました。
その実態を見たプラトンや弟子のアリストテレスなど古代の錚々たる哲学者は、もう民主政には期待しませんでした。それよりも、衆に優れて見識のある人、私欲がなく物事を公正に考えられる人が為政者になる方がいい。それが、哲人王(皇帝)の理想でした。その延長としてアリストテレスは、少数の優れた人々の集団としての貴族制や寡頭制などに高い価値を置くようになります。
そのように、かつてプラトンが理想の政治形態の一つと見なした哲人王として君臨した先帝であるにもかかわらず、息子コンモドゥスは、父親の文人肌で哲学者として皇帝に君臨したことがあまり好きではなかったようです。どちらかというと、彼は武人肌で、軍事的なことに興味があったからです。
●武人肌の皇帝が「剣闘士」にはまった理由
マルクス・アウレリウスの治世当時は、北方にゲルマン民族がいて、ローマ帝国に対する侵略的な態度を示すようになっていました。特に北部戦線で両者の対立が頻発するようになると、文人肌の父親を避けるような形で、コンモドゥスは軍事的業績を追うようになります。
とはいえ、彼は武人肌でありながら、対ゲルマン民族に関しては、これ以上軍事費をたくさん使うよりも、ある程度彼ら異民族の納得するような形で貢納金を払ってでも対応していく方が安上がりだろうと考えていました。ある意味、安易な妥協案に走りがちともいえる態度です。
しかし、表向きにはやはり武人として活躍したかった彼は、剣闘士に憧れます。自らもライオンの皮で作ったマントをまとい、「ヘラクレス神」を名乗ったりするようになります。剣闘士の格好や振る舞いをするのは、ただ見るばかりの民衆には面白かったかもしれませんが、元老院議員をはじめとする貴族の人々にとっては、皇帝の権威を損ねかねないことと受け取られました。
政治の実権を握った彼は、面倒なことがだんだん嫌になっていき、側近に実務を任せるようになります。ローマ帝国を維持するための直接の労苦をできる限り遠ざけ、ローマ帝国がどうすればうまく機能するのかという問題さえも人任せになっていきました。
●妻も加担していた、コンモドゥスの暗殺
コンモドゥスは贔屓をすることが多く、自分の気に入った者は側近に採用するけれども、気に入らない者の財産を没収したり、処刑するようなことさえありました。非常に勝手気ままが続いたため、周りからの反感も次第に募っていきます。
やがて彼は、自分の妻や愛人からも怖がられ、疎んじられるようになります。皇帝という地位を利用する彼によって、次は誰が犠牲者になるのかと、周りの人々は戦々恐々として生きていくわけですが、そのうちに妻や愛人さえその群れに入ってしまったのです。
コンモドゥスの治...