●治世の半分を属州の視察旅行に費やしたハドリアヌス
ハドリアヌスは22~23年ぐらいの治世の間、半分は、属州巡察に努めています。1~2年各地を回ってはまたローマに戻って来るという形で、何度も繰り返し属州視察旅行を行いました。ただ、実際に皇帝が来ても、属州の人々は皇帝を直に見ることは、ほとんどあり得ません。しかし彼は、20数年の間に10年近くは属州視察をしていましたから、ほとんどの属州をくまなく行ったことになります。
中でも特にローマ人にとってギリシャは先進文化です。ギリシャを征服してから300年から400年ほど経過した紀元2世紀ごろでも、ギリシャの文化からさまざまなものを学ぼうという姿勢をハドリアヌスは強く持っていました。文人肌の皇帝ですから、いわばギリシャかぶれのように、ギリシャの文化をより重視するのです。
●ハドリアヌス・ルネッサンス~ドリアヌス時代に修復・建築される建物~
だから属州視察旅行に行くたびに、さまざまなところに新しい建物が造られたり、あるいは古いものが修復されたりします。つまり一方の側からすれば、皇帝陛下がわれわれのところにいらっしゃるのだから、町をきれいにしたり、皇帝陛下に対する記念碑を建てなければならないということになります。ハドリアヌスの側からすれば、そういう形で広く民衆に迎え入れられることは、自分がさまざまな面で評判を落としていたことを拭い去るチャンスになったのではないでしょうか。
ともかく治世20数年の間の半分を属州視察旅行に費やして、帝国内のさまざまな安定に努めます。トラヤヌスが戦争によって自分の権威を誇示したのに対して、ハドリアヌスは戦争よりも文化的な事業の復興と連動して属州視察旅行が行うことで民衆に皇帝への敬愛の念、敬慕の念を持たせようとしたのです。
ですから、おびただしい数の建物が、この時代に建てられたリ修復されたりしています。「ハドリアヌス・ルネッサンス」という言葉がありますが、ルネッサンスはイタリアで15世紀ぐらいから始まった運動で、近代的でさまざまな新しい様式が出来上がってきたことに倣っています。ハドリアヌスによって、さまざまなところの建物が修復されたために、例えばギリシャに行って建物を見ると分かります。パルテノン神殿などは紀元前5世紀のものですが、小さな神殿はハドリアヌスの時代にかなり修復されており、新しく建てられたものもあります。
ですから、ギリシャ史の専門家がそうした遺跡を見て「またローマか」と時々がっかりすることがあります。つまり、最初はギリシャだと思っていたけれども、どうやらローマのハドリアヌスの時代に修復されたものらしい、ということがかなりあるからです。
それから貨幣に関しても、属州の各地でハドリアヌスが来たことを記念して彼のレリーフを刻んだものが、ハドリアヌスシリーズといわれるぐらい多く出ています。そのような文化事業に対して彼は非常に積極的でした。
行政においては、ハドリアヌスが治世の半分を属州視察旅行に費やしながら、帝国そのものはびくともしない形で維持されていました。元老院貴族を中心としたハドリアヌスに対する反発はあったわけですが、国家そのものはハドリアヌスがそれだけ出費をしても、うまく機能していたのです。ですから、行政組織そのものがかなり官僚化されていたのではないでしょうか。最高権力者がいなくても、つまりそのまま放っておいても、事務的に処理されるという状態だったと推測されます。
●詩作に励む文人皇帝ハドリアヌス
そうした形で、ハドリアヌスは属州視察旅行をし、内政の安定に努め、文化事業に盛んに行いました。建築もそうですが、彼は自らさまざまな詩を作ったりもしています。
面白い例を一つ紹介します。ローマ皇帝というと、なんとなく厳めしく恐ろしい皇帝ではないかと思われますが、意外と庶民との間でいろいろなやり取りがありました。ハドリアヌスの時代にフロルスという詩人がいたのですが、この詩人がハドリアヌスをもじった詩を書いています。自分は皇帝になりたくない、皇帝になるとあの寒いスキティアの冬を忍んで、各地の不便なところまで出かけなくてはいけない、という内容の詩ですが、それをハドリアヌス向けに書くと、これに対してハドリアヌスが反論を書きました。
私はフロルスにはなりたくない、小汚い居酒屋をうろうろしている、そのようなところには自分は行きたくない、という内容ですが、このような形でやり取りをする面もあったのです。つまり皇帝はグラビタス(重々しさ)とレビタス(軽々しさ)が適当な割合で均衡が取れているのが望ましいと考えられているわけですが、ハドリアヌスにも、そうした面があったということです。
●広大な敷地を有するヴィッラ・アドリアーナ
ハドリアヌス...