●ゴルディアヌス3世からピリップス・アラブスへ
1年間に5人の皇帝が亡くなった後、13歳のゴルディアヌス3世が即位します。3世といっても2世の子ではなく、ゴルディアヌス1世の娘の子でした。すごく若かったため、皇帝の務まるはずもなく、おじあたりを代理人としてローマの統治を行うことになりましたが、建前上はあくまでもゴルディアヌス3世の治世です。
ところが、この皇帝がだんだん成長してくる過程で、どうもあやしくなってきた。13歳で即位して5~6年たち、18歳ぐらいになり、それなりに成長しても、どうも皇帝の務まるような器量がなさそうなのです。彼はだんだん周りからの人望や信頼をなくし、皇帝の器ではないということで、若くして殺されてしまいます。
彼の後はピリップス・アラブスです。アラブスという名前から分かるようにアラビア人の血を引き、シリアの西南部で生まれたといわれます。つまり、バルカン半島よりさらに東方のアラブ系の人間までがローマ皇帝になってしまった、ということです。
かつてのセプティミウス・セウェルスも、どちらかというとセム系の血を引いていましたが、ピリップス・アラブスに至って、ついにアラビア人そのものが皇帝になっているわけです。
●ローマ建国千年祭を祝ったアラビア人皇帝
彼は息子を共治帝に立てて、約5年間、ローマ皇帝として君臨します。しかし、アラビア人がローマ帝国の皇帝になることに対して、東方の人は別にして、やはりローマ人からは非常に反感を持たれました。また、彼が皇帝の地位についていた248年は、よく考えるとローマの国家が誕生してちょうど1000年にあたっていたのです。
紀元前753年がローマの建国ですから、248年がちょうど1000年に当たります。当然ながら、建国千年祭のようなものが華々しく行われました。その時の皇帝がピリップス・アラブスだったので、そういう意味で有名な皇帝です。しかし、その皇帝がローマやイタリアの貴族の血を引く者ではなく、ローマ帝国からはるかに遠いアラビア人の血を引いていたのは皮肉なことでした。
こうしたことへの反感は抱かれていましたが、彼は殺されたわけではなく、戦死してしまいます。軍人皇帝の時代、軍事的な功績をあげることで皇帝としての成果と見なされたのです。結局、彼が戦死してしまったため、息子ももちろん一緒に廃位させられることになりました。
●帝国立て直しに尽力したデキウスが悪帝である理由
その後、デキウスという皇帝が立ってきます。この皇帝もバルカン半島の一角、モエシアで生まれた人で、やはりゴート人と戦って亡くなってしまいます。この時も息子が共治帝になっていましたが、いわば後継者のようなかたちで認められていただけで、息子の方は正式に元老院で認められた皇帝ではなかったようです。
デキウス帝は非常に優れた皇帝で、ゴート人との戦いで亡くなるまで、たった2年間の治世でしたが、さまざまな改革に取り組みました。とんでもない時代になっていることに気づき、財政の立て直しをはじめとして、軍隊のシステムなど、さまざまな改良をしようとしていました。
彼が時代に恵まれていたり、あるいは戦争で亡くならずにもっと長生きしたりしていれば、ある程度は皇帝としての成果を挙げたのではないかと思わないでもありません。ところが、どちらかというと彼は悪帝だといわれます。なぜならば、キリスト教を迫害したからです。
要するに、後々に悪帝や暴君といわれている皇帝は、キリスト教の普及したヨーロッパ的、あるいは西洋的基準で見られているわけです。キリスト教を迫害したり、それなりに残虐に扱う・抑圧するということのあった皇帝たちは、非常に嫌われます。それで、悪帝ということにされてしまったのです。