●実存主義からポストモダニズムへ
―― 続きまして、ご著書『超デジタル社会』でとても印象深かったのが、コンピュータの発達・歩み・歴史を、哲学と織りあわせて論じておられる点です。典型的には、サルトルなどが唱えた実存主義的な哲学から、レヴィ=ストロース以降の構造主義、さらにポストモダニズムへといった哲学の歩みが、 コンピュータのさまざまな考え方と平仄(ひょうそく)が合うというお話がありました。この点について、先生はどのようにお考えでしょうか。
西垣 私は団塊の世代で、大学時代に学生紛争があった時代の人間です。あの頃は、マルクス主義が知識人の心を捉えていました。サルトルは、マルクス主義と実存主義哲学を組み合わせた人物で、「歴史に自らを投げよ。そして世の中を良くしよう」という彼の言葉で血をたぎらせた若者は多かったと思います。
しかし、あのとき、もうすでにフランスでは構造主義が登場してきており、サルトルの実存主義はやや古いと言われていたようです。レヴィ=ストロースが『野生の思考』という本を60年代に書いたのですが(1962年)、彼は人類学者ですので、さまざまなフィールドワークをやったわけです。そして、「白人が自分たちの近代主義を推し進めているけれども、これは間違いではないか」 「未開とされた人々たちの中にも、それぞれ文化があるし、言語もある。それぞれにみんな価値があって、正しいのだ」という一種の相対主義を、彼は主張しました。
特に1960年代は、アフリカなどの多くの国が独立していった時代でした。はっきりいうと、植民地で白人たちは悪いことをいっぱいやったわけです。そういうこともあって、「構造主義は素晴らしい」という議論が支持されるようになったわけです。
たとえば言語に関して言うと、日本語やスワヒリ語、フランス語など、それぞれの言語が、それぞれの言語なりの方法で、世界を表現し、記述しています。そこに「上下」はないんだという考え方ですね。
こうなると、ポストモダニズムが出現します。それまでは、西欧流の近代化や民主主義が大切で、世界を進歩させていくのだという考え方でした。これに対し、地球上の多様な言語や伝統文化をみな尊重すべきであるという相対的な価値観も生まれてきたわけです。
●「相対的価値観」と「データサイエンスの実用的客観性」
西垣 この相対的価値観には、私も賛同します。私自身、日本人で有色人種ですから。
こうして、「近代化で人類が進歩する」という理念に、ポストモダニズムは疑問を投げかけることになりました。私など、若い頃は「近代的な科学技術が人間を進歩させる。良いことなのだ」というモチベーションがあったので理科系を専攻したわけです。ところが、近年では、「近代的な科学技術が生態系を傷つけている」などの問題が指摘されています。
―― はい。
西垣 それで、今、われわれの進むべき方向性は、ぐらついています。こういう中で、なんとかして新しい方向を見つけようと、皆がもがいているわけです。
ところが、この一方で、「そういう難しい意見は一応分かるけれども、そうは言っても、実用上とるべき身近な方向性があるのではないか」という議論が出てきます。これが何かといえば、「データ科学」などといった領域です 。つまり、データやエビデンスは、何らかの実用的な客観性を持っているだろうと。
―― 先ほどの「相対的な考え方」は、「主観がそれぞれあって、さまざまな文化があって、それぞれ尊重すべきだ」という考え方ですね。
例えば、英語で青っぽい色について、いろいろな言葉があります。一方、日本語でも、青っぽい色について、いろいろな表現があります。これは当然、青っぽい色に対して多くの言葉を持っている文化圏のほうが、「青色」について全然違う認識をしているかもしれません。社会の秩序構造についても、「英語だと、こういった言葉で上下関係を話すけれども、日本語ではこんなに言葉がたくさんある」ということがある。そうすると、当然、「世界の見え方」が日本語と英語では違いますよね、というイメージでしょうか。
西垣 そうです。構造主義やポストモダンなどの「相対的な価値観」が現在の主流になっています。
この「相対的な価値観」がある一方で、そこまで絞ってしまうと何もできなくなってしまって困る、というように考える人たちも多いのですね。そこで、もう少し身近な実践知というものが、また逆に、流行ってきたのです。
これはポイントとして、言っておく必要があるでしょう。「多様な主観の相対性は認めるとしても、データやエビデンスには、それなりの実用的な客観性があるじゃないか」「例えば、誰が調べたって、これだけの売り上げがあるのは事実だ」というような考え方が出てきました。特に、マー...