●サイバネティック・パラダイムは「生き物の観点」から考える
―― 先ほど、哲学的な背景がコンピュータの世界にも、いろいろなかたちで反映しているというお話がありました。そういう部分でいくと、ポストモダニズムはそれまでのような「近代主義で一直線で未来に向かって」という世界とは違って、相対主義といいますか「多元的なものが相対的に存在している社会」を、いかにコンピュータのなかでつないでいくかという発想になっていくかと思います。
実は、テンミニッツTVでは頼住光子先生という倫理学の先生に仏教の講座をお願いしておりまして、大乗仏教的な「空-縁起」理論についてお話しいただきました 。それによれば、「空」は何もないということではなく、関係性の網の目の中で位置づけられる。たとえば、Aという人から自分を見るとこう見える、Bという人から見るとまた違って見える。では「本当の自分」は本当にあるのか。その関係性の中で紡ぎ出されているものが自分なのではないか。だから、「こだわるべき自分」のようなものは、実はなくて、すべて相対の中に溶けていくような自分になるのではないかというお話でした。(頼住光子先生:【入門】日本仏教の名僧・名著~親鸞編(3)「空-縁起」と『歎異抄』)
西垣先生の『超デジタル世界』を読んだときに、ある意味ではそのポストモダニズム的な多元主義、相対主義的な世界観は、どこか日本に古来あった大乗仏教的な「空-縁起」の世界と結び付くような感じがします。それを踏まえると、日本人が新しいネット社会をどう捉えるかという見方も少し変わるのかもしれないと思ったのですが、ここを先生はどのようにお考えですか?
西垣 そこはポイントです。ちょっと整理をすると、今、普通に「デジタル化」と言ったときは、ともかく「世界というものは秩序だってできている。実体からなる秩序があって、それをきちんとデータとして分類し、記述し、高速に組み合わせれば答えが出る」と考えます。こういうのは「コンピューティング・パラダイム」といいます。
「コンピューティング・パラダイム」は、ジョン・フォン・ノイマンという 天才が中心になってつくったわけですが、ある意味ではわかりやすい考え方です。 「客観世界というものがある。客観世界を神様がつくったのかどうかはわかりませんが、とにかくそういうものがある。きちんと実体としてあるのだから、データサイエンスでその中身を分析して、答えを出せばいい」。こういう方向が、「コンピューティング・パラダイム」です。
もう一つ、20世紀半ばに、「サイバネティック・パラダイム」というものができました。これはフォン・ノイマンのライバルといわれたノーバート・ウィーナーという天才数学者が考えたものです。
「サイバネティクス」とは何かというと、要は、「生物がどうやって生きていくのか」を考えるわけです。だから、上から世界を見下ろすような「コンピューティング・パラダイム」的な話ではないのです。神様みたいに見下ろしているのではない。「生き物の観点」から考える。
生き物が見ている世界は、すごくローカルで、限定された世界ですよね。そういうなかで、どう行動すればいいのか。これは、まさに先ほど(第2話で)述べた「母語の世界」です。私の孫も、私自身も、みんなそうやって生きている。そういう行動の分析や改善も大事にしなければいけないというのが、「サイバネティック・パラダイム」なのです。
サイバネティクスについて、少し誤解があります。当初は、「サイバネティック・パラダイム」と「コンピューティング・パラダイム」は、かなり重なっていたのです。そのため、「サイバー世界」というと、皆が「コンピューティング世界」のことだと思ってしまう。当初の考え方が残っているので、そういう認識になっているのです。
本当のサイバネティクスは、1970年代から80年代に生まれた「ネオ・サイバネティクス」です。これはどういうものかというと、「生物の主観的な世界に着目して、そこから物事を考えていこう」とするものです。
―― 主観ですか。
西垣 主観です。だから「客観的な世界が、すでにある」というのではなく、「主観から、世界を立ち上げていこう」という考え方です。代表的なものとして、「オートポイエーシス理論」があります。「オートポイエーシス」とは、「オート=自分」、「ポイエーシス=作る」で、「自分で自分を作る」ことを意味します。 これはすべての生物が行っていることです。
―― そうですね。子どもをつくる。
西垣 子どもをつくることもそうです。私の心も、自分自身で勝手なことを考えられるから、オートポイエティックなわけです。そこで「意味」というものができあがってくる。「自分にとっての意味」とは「自分にとって大事な...