●「シンギュラリティ」の悲観的未来を超えて
―― AIに関する議論でよく聞くのが、シンギュラリティです。これは、AIの能力が人間を超える時点がやってくる。そのシンギュラリティの世界になると、一部のエリートだけがAIで「設計」をして、あとの人々は不要階級になるという、ユヴァル・ノア・ハラリが言ったような議論も一面で存在します。しかし、今回のお話を聞くと、そういう世界だけではなくて、「空-縁起」や「サイバネティクス」なども含めて考えていくと、必ずしもそうはならないということでしょうか。
西垣 ハラリのいう絶望的な世界のようにならないようにしないといけない、ということですね。今、このまま進んでいって、人間がデータのようになってしまうと、やはり生きにくい。生きるのがつらくなるんですよ、本当に。
今、うつ病なども増えてきています。それは「ごはんが食べられない」という、昔の飢えの苦しみなどとは、性質が違うんですね。無用階級(useless class)の人たちであっても、ジャンクフードなどを、安く食べられるのです。でも、虚しさもあるし、自分の価値や生きがいを全然感じられなくて、そして心が病んでいくわけです。こうなるのは、なんとか防がないといけません。防ぐ可能性はあるわけですから。
なぜかというと、人間と機械はどこか違うということを、日本人はわりと直感的にわかっているのではないでしょうか。私はそう思うのです。
逆にいうと西洋人の思考とは違うということです。論理主義哲学のようなものに基づいて、「世界は『論理的な秩序』を持っているから、その中をコンピュータという磨き上げた知を使って徹底的に探索していけば、それで万事済む」というのが、西洋の人の考え方です。やがてコンピュータの能力が人間をこえる、というシンギュラリティ(技術的特異点)の議論も、そうした考えから生まれました。頭のいい人たちが、そうしたことを考えるのです。ユヴァル・ノア・ハラリのような歴史家も、一種のニヒリズムにおちいって、悲劇的な未来を予感しているのです。
それに対して、日本人はおもしろいことに、オプティミスティック(楽観的)です。AIについても、アンケートをとると、AIの持っている「負の部分」を認識している人のパーセンテージは、アメリカ人のほうが日本人よりずっと高い。日本ではAIを素晴らしいと思っている人が多いのです。しかし同時に心の底では、「人間とコンピュータはちょっと違うのではないか」と感じているのではないか。
これは、日本人の伝統的な生活感覚や美学に関わっています。「流れゆく時間の中で、皆、生きているのだ」という生活感覚がある。そういう意味では、矛盾にかかわらず表面上だけ、アメリカのマネをしているのは、情けないなと思うわけです。
アメリカのシンギュラリティのような議論も、ある面で凄いのだけれども、それを相対化する思想がなければいけません。それがたとえば、先ほどおっしゃった大乗仏教的な考え方かもしれない。仏教思想はやっぱり深いわけですから。
われわれは伝統思想をきちんと顧みて、自分たちの行くべき方向を考え直すべきです。それが本当の、「AIをわれわれが使っていく」ということだと思います。そうした努力が足りないのではないか。私もそのための思想運動をやりたいのだけれど、だんだん歳をとって体力や気力がなくなってきた(笑)。
●3種類の情報を、本居宣長の「もののあはれ」論で考える
西垣 そうは言っても、情報というものには、少なくとも3種類あるということだけは、ぜひ強調したいのですよ。
―― はい。
西垣 例えば、「おなかが痛い」というのは「生命的な情報(=生命情報)」です。 それをお医者さんに行って「下痢もしているし、吐き気もある」と症状をいうのは「社会的な情報(=社会情報)」です。 そして、お医者さんがいろいろ考えて、「ああ、これは食中毒の可能性が高いですね」と言って、電子カルテに記入するのは「機械的な情報(=機械情報)」です。
つまり、「生命的な情報」がまずあって、それが「社会的な情報」として言葉で表現されて、最後に「機械的な情報」として記録されるということです。
コンピューティング・パラダイムというのは、「機械的な情報」を効率的に扱うための思考の枠組みであり、ツールです。こういう文化はもちろんあっていいし、これからも活用しなければいけませんが、もっと奥に「生命的な情報」というものがある。
たとえば、お母さんが子どもの様子を見て「おなかが痛いんじゃないの?」と推測したりすることが、いちばん大事なのです。ここを軽視して、「統計データによって推測すると」などと機械的なことばかり言っている風潮が、私は心配でなりません。
一番大事なのは、やはり、流れていく時...